『空気の読み方、教えてください: カナダ人落語家修業記』(小学館)

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 外側からは華やかに見える日本の伝統芸能の世界だが、極めるには厳しい道のりが待っている。何百年も続く歴史を背負いつつ、現代の観客にも楽しめるような工夫もこらさなければいけないのだから、並大抵の努力では一人前になれないだろう。しかし、日本人すら挫折する伝統芸能に、外国人が弟子入りしたらどうなるのか?

『空気の読み方、教えてください: カナダ人落語家修業記』(小学館)は外国人初の上方落語家となった桂三輝(さんしゃいん)さんの自伝である。カナダ人である三輝さんにとって日本語や落語はもちろん、日本特有の「師匠と弟子の関係」も分からないことだらけだったという。

 三輝さんの本名はグレッグ・ロービック。1970年にトロントで生まれ、大学時代から演劇を本格的に上演し始める。しかし、挫折して悩んでいた時期に「古代ギリシャの演劇は、日本の歌舞伎・能と似ている」と知り、1999年、日本文化を学んで演劇に活かすため来日する。

 以降、英語教師の仕事で生計を立てながら伝統芸能に触れる毎日が続く。転機は日本に住んで5年が過ぎ、落語会に参加したときだ。「これだ、これを探してたんだ」と悟った三輝さんは、演者として落語会で漫談を披露するなどしながら落語家になる方法を模索し始める。

「落語家になるには師匠に弟子入りしなければならない」と知った三輝さんが師匠に選んだのは、上方落語界の重鎮・桂三枝(現・文枝)だった。「この人は天才だ!」と震えるほど三枝さんの落語に感動した三輝さんは、雨の中、楽屋口で出待ちして弟子入りを懇願した。それから8カ月、「よかったら来週も来て」としか声をかけてくれない三枝さんのもとへと通い続け、ようやく三輝さんは弟子入りを認められた。

 しかし、本当の苦労はこれからだ。カナダ出身の三輝さんには「師匠の空気を読んで尽くす」という修業の本質が理解できない。師匠よりも先に弁当を食べたり、留守番中に家に帰ったりして兄弟子から怒られる日々だ。師匠の寝室の掃除を任されたときは、よかれと思ってにぎやかに飾りつけをしてしまい笑われてしまう。三輝さんにとって「空気を読む」とは非効率的な振る舞いとしか思えなかったのだ。失敗続きの三輝さんに兄弟子が授けたアドバイスは衝撃だった。

弟子は一〇〇をめざすものではない。0をめざせばいい。師匠に褒めてもらうのがゴールだと思うのは、とんでもない勘違い。師匠が、おまえのしたことにまったく気づかないのが一番の理想。

 三輝さんには早く師匠から認められたいという気持ちがあった。そのため、修業の成果を過剰にアピールしてしまったのだ。しかし、「自分」を優先して周りが見えなくなると伝統芸能の世界では支障をきたす。落語会の演目は他の出演者とのバランスを見て決めるし、受けを取ろうとして出番が後の師匠よりも目立つ行動に走るのも厳禁だ。三輝さんは修業時代からだんだんと欧米にはない「空気を読む」ことの大切さを学んでいく。

 三輝さんには敬語の存在も新鮮だった。欧米では大統領にさえ通じる「サンキュー」も、日本では目上の人に使うのは良くないとされる。日本語ではお礼の言い方だけでも何十通りもあり、相手によって使い分けるのが日本流「空気の読み方」だ。現在、三輝さんは修業を終えて海外で公演を行うほどになった。しかし、台詞を英語に翻訳するときにも、日本語の細かなニュアンスを失わないよう注意している。それが失われてしまうと落語の面白さが半減すると気づいたからだ。

「空気を読む」習慣を面倒に思う日本人も多くなっているが、本書を読むとそれも日本人の美点の一つではないかと思えてくる。三輝さんの活躍は海外だけでなく、日本人にも日本らしさとは何かを確認させてくれるのだ。

文=石塚就一