観客の評価が二分した『ブレードランナー 2049』は内容的な成功を遂げたのか?

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「『ブレードランナー』以降の近未来SF映画で、『ブレードランナー』を意識しない作品なんてあるのか」

 アニメーション映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』で世界的成功を収めた巨匠・押井守監督が語るように、『ブレードランナー』は、SF映画に多大な影響を与えたエポックメイキングな作品だ。そしてさらに、ジャンルや表現手段の枠をも飛び越え、様々な分野のカルチャーにその遺伝子を拡散させた伝説的映画なのである。

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 『ブレードランナー』で描かれるディストピアでは、酸性雨が降りしきり、東洋的いかがわしさと西洋的なゴシック趣味がグロテスクに交接し、悪夢的テクノロジーから生まれた人造人間(レプリカント)たちが人間によって管理されている。その構図によって示される、存在における哀しみと哲学的な問い。この悲観的でニヒリスティックな世界観は、ある種の官能性に到達し、その美的感覚に感応する観客を陶酔させ続けてきた。

 その『ブレードランナー』公開から35年、ついにこの伝説が、その後の世界を描く続編映画『ブレードランナー 2049』として劇場に帰還した。この作品、なかなか複雑な受け止められ方をしているようだ。アメリカ本国での批評家の反応は上々だが、興行成績が思うように振るわず、観客の評価は二分している。それではマニア受けする作品なのかというと、日本のコアなファンにおいても、その意見は割れているように思われるのだ。ここでは、そんな本作『ブレードランナー 2049』では何が描かれていたのか、そして内容的な成功を遂げたのかどうかを判断していきたい。

 前作でハリソン・フォードが演じた主人公・デッカード同様、人間の支配に反逆したレプリカントを“解任(殺害)する”任務を負った刑事“ブレードランナー”として活躍するのが、ライアン・ゴズリング演じる本作の主人公「K」である。前作のファンの間では、「デッカード自身もレプリカントだったのではないか」という疑惑について長らく議論されてきたが、本作の「K」は、レプリカントであることが、周知の事実として最初から明示されている。「K」は捜査のなかで、生殖機能が完全に備わっていないはずのレプリカントが子どもを産んでいたという情報を得て、自分のなかにある「記憶」をもとに、レプリカントであるはずの自分自身の出生の秘密に迫っていく。

 本作が多くの点で前作をリスペクトした内容になっていることは明らかである。シド・ミードのイメージによる退廃した都市の表現、哲学的な会話、人造人間が自分の生きる意味に苦しめられる様子など、様々な点で前作の要素を踏襲している。全く違うのは、上映時間が前作公開版より約45分も長くなったという点だ。この「時間」が意味するところは何なのだろうか。本作を観る限り、前作に比べてそこまで複雑な謎やアクションが描かれているような印象はない。最も時間が使われているのは、風景描写や会話など、一つひとつのシーンそれぞれの余韻である。そういったシーンを短くして、通常の娯楽映画同様に多くの観客を飽きさせないようなペースで編集されていれば、本作はもっとヒットしていたはずだ。

 そもそも前作『ブレードランナー』も、劇場公開時はさほど評判になっておらず、むしろ後にビデオソフトで普及してから、その真価が広く知れ渡った作品である。一回の鑑賞では分かりづらかった、謎と哲学性に満ちた作品の深い内容が、数回の視聴行為によって、正当に理解されることで伝説的存在へと成長していったのだ。基本的に、多くの映画は一回きりの体験を与えるものとして作られている。それは、描かれる物語の展開が分かってしまえば、そこへの興味を失ってしまうからである。だが『ブレードランナー』のような、哲学や宗教的な暗喩に満ち、美意識がみなぎった作品においては、そのような部分は問題にならず、逆に何度も繰り返し鑑賞することで、内容がより理解でき、雰囲気に深く耽溺することもできる。

 雨や湿度により奥行きを表現し、不穏さを放つ都市に吸い込まれるような浮遊感覚で、煉獄の世界に舞い降りていく天使のような視点を持った、名手ロジャー・ディーキンスの撮影、ハンス・ジマーとその右腕といわれるベンジャミン・ウォルフィッシュによる、効果音とも音楽ともつかないアヴァンギヤルドな音響、そしてオリジナルのデザイナー、シド・ミードを含む100人を超える大勢の美術スタッフのイメージを統括する『007 スカイフォール』のアーティスト、デニス・ガスナーが表現した世界。本作で描かれる新しい表現は、その魅力を最大限に発揮するため、本筋の展開を停止させてまで、そういった部分を描いていく。それもまた作品の本質だからである。

 何度も何度も同じ映画を繰り返し鑑賞した経験があると分かるように、観客を退屈させないよう早いテンポでカットをつないでいくような技術の重要性というのは、繰り返し見るたびに限りなく低くなっていくものだ。そればかりか、同じ内容で3時間、4時間と長い再生時間でじっくりとシーンを描くものの方が、むしろ楽しめる場合もあるだろう。本作は、この退廃した美の世界のなかにいつまでも浸っていたいと願う観客の望みを叶えている。ビデオでの繰り返しの鑑賞を想定し、さらに劇場においても、観客にあえてそういうテンポの楽しみ方を提示しているのだ。インターネットでの動画配信サービスが浸透し、作品に与えられた時間の枠が多様化しつつある現在、本作の試みというのは、作品そのものが要請する時間に応えたものになっているといえる。だから表面的には、本作が間延びした退屈な映画だと思われてしまうのも道理といえるだろう。だがその判断はあくまで、「映画はテンポよくタイトな時間に収まった方が気持ちがいい」という、従来の映画の常識にこだわった保守的な見方に過ぎない。

 しかし前作『ブレードランナー』は、ハードボイルドな「刑事もの」として、従来のジャンルの型にはまった楽しみ方ができる作品だったというのも、また確かである。前作ではデッカードが、逃亡しようとする女性型レプリカントを背後から撃ち抜くなど「汚い仕事」をこなしていくなか葛藤することで、緊張感とニヒリズムを醸成していたが、本作の「K」は“ブレードランナー”としての任務に従事する場面が少なく、自分探しをするための捜査を始めてしまう。これが前作ほどの圧迫的な閉塞感が味わえない理由であるだろう。その意味では、前作の一部ファンの不満というのも理解できるところだ。

 コアなファンの多い『ブレードランナー』の続編を撮るという大役を引き受けたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の仕事が、その点において「完璧」とは言い難いのは、あくまで娯楽映画としての骨格を残していたリドリー・スコットの作家性に比べると、内省的で繊細過ぎる感性から、エンターテインメントとしてのダイナミックさに欠けるという部分があるからであろう。しかしそれすらも、前作がジャンルの枠を押し広げたのと同様に、「娯楽映画」という意味が変質していく映画史の過程の一部なのかもしれない。そう思わせるコンセプトとしての「大胆さ」が本作に備わっていることは確かなのだ。

 本作はそのようにアプローチの方向を一部変えながらも、前作の核となる部分を追求し、さらにそれを見事に明確なものにしている。『ブレードランナー』が描いたものは、「管理」と「自由意志」の葛藤である。自分たちの創造主たる人間に反逆するレプリカントたちは、かつて人間の都合のいいように利用されるだけの奴隷だった。だが彼らがその支配を逃れてもなお、レプリカントの肉体にあらかじめ設定されていた寿命には抗えない。そして植え付けられた偽りの記憶を頼りに生きていかなければならないのだ。

 そんな彼らを殺害していくデッカードもまた、組織の命令によって縛られた存在だ。「二つで十分ですよ」と言われてしまうように、屋台で好きに食事を注文することもままならない悲哀に満ちた男なのだ。つまりブレードランナーという存在も、レプリカント同様に社会から抑えつけられた状態にあり、一部の人間や組織によって都合よく消費される奴隷なのである。デッカードは、自分が愛してしまったレプリカント「レイチェル」をも殺害しなければならないことに悩み、組織の管理に対し「服従か反逆か」運命の岐路に立たされることになる。

 本作の「K」も、勤務先の警察で従順さを確認される「行動テスト」を受けなければならないような、自由な意志を持たされていないブレードランナーであり、かつレプリカントである。そんな彼の生きる喜びは、ホログラムで表現される人工知能の恋人「ジョイ」だけである。

 「K」とジョイが遺伝子について語り合う場面がある。人間やレプリカントの存在が、A、T、G、Cという四種類の遺伝情報によってかたちづくられているように、ジョイのようにデジタルデータによって構成される存在もまた、1と0という二種類の情報によってかたちづくられたものだ。その意味では、本作から短期の寿命という枷から解放されるようになったレプリカントと人間との間の差異がほぼ無くなったことと同様、彼ら生体とデジタルデータもまた、本質的には同じ存在かもしれないということが描かれている。

 自分の頭の中にある「記憶」が、植えつけられた偽物だと納得していた「K」は、自分の記憶にある出来事が真実であったことを突き止めると、自分は本物の記憶を持った特別な存在なのではないかと考え始める。彼を日々励ましているジョイも喜び、彼に「ジョー」という名を与える。はじめは消極的ながらも、「K」は自分がジョーという一個人であるという自覚を持ち、尊厳を見出す。そして、その先に待ちうけている過酷な真実に到達するため核心に迫っていく。

 レプリカントが所詮、偽りの記憶に操られた哀しい存在でしかないのならば、人間もまた、あらかじめ決められた遺伝情報の制約のなかで生き、社会性に縛られる不自由な存在である。デッカードや観客が前作でレプリカントの行動に感動するのは、そんな不自由な状況に追いつめられたとしても、「人間性」を示すことができるという部分においてである。レプリカントに人間性があるのなら、人間が自由に生きられないはずがない。レプリカントの自由意志は人間の希望でもあるのである。

 そしてまた、ホログラムとして現れ、与えられた情報によって愛情をコントロールされてしまう人工知能が、定められた制約のなかで肉体を得ようとベストを尽くすように、生体を持つレプリカントもまたその行動に勇気づけられ、自分も「人間性」を持つことができるという希望を持つのだ。生きる意味に悩む「K」が、彼女の生き方に勇気を与えられることで、自分の意志を信じてみようと決意する瞬間が感動的だ。

 多くの人間は現実の社会において、あらかじめ決められた損得の観念やルールのなかで、見せかけの自由を与えられ、慎ましく反抗せず生き、社会の歯車となることを望まれている。そのなかでただ状況に身を任せているだけでは、その精神は奴隷に成り下がってしまうだろう。誰であれ、この鎖を引きちぎろうともがくことなしには、本当の意味で自由な意志を獲得し、能動的な行動をとることはできない。そこに踏み出していくことこそが『ブレードランナー』の精神である。本作は、前作のテーマを受け継ぎ、それをもう一度練り直し語り直すことによって、『ブレードランナー』が描いたテーマを明確に我々に届けている。本作はそのような意味で価値のある続編になったといえるのだ。(小野寺系)