東京には、いろいろな妻達がいる。

良き妻であり、賢い母でもある良妻賢母。

夫に愛される術を心得た、愛され妻。

そして、あまり公には語られることのない、悪妻ー。

これは、期せずして「悪妻」を娶ってしまった男の物語である。

女性の美に並々ならぬ執着を持つ男・藤田。そんな藤田が選んだ妻・絵里子とは一体どんな女なのだろうか?




「妻」らしくない妻、絵里子


「藤田さん。私今夜はご飯いらないから、一人で好きなものを食べてね。」

月曜日の朝。

結婚と同時に買ったアンティークの鏡台の前に座りながら、絵里子はこちらを見ようともせずに言い放つ。

化粧をしているようには全く見えないのに、いつもこうして鏡台の前に座ると小1時間は顔にあれこれ塗りたくってその場を動かない。

「好きなもの、か…。僕は、できれば君と一緒に食事をしたいんだけどな。」

美しい女を眺めながら食事をするのが何よりの道楽である藤田は、絵里子と結婚したら晴れて毎日そうした幸せが得られると思っていた。

だが彼女は夜、自分の気分で好きにどこかへ出かけてしまう。

絵里子からの反応がないので、藤田は続けた。

「今日はどこに行くの?」

鏡の前で一生懸命何かを塗りたくる絵里子の方に向かいながら声をかける。鏡の中の絵里子と目が合った。

あの目だ。出会った時に、強烈に惹かれたあの強い眼差し。

「そういう風に、細かいことを聞かないで。私、束縛されるのが一番嫌いなのよ。それなのにあなたと結婚したんだから、これくらいは許してもらわないと。」

こちらへは一度も振り向こうともしない。

藤田は大きくため息をついて、仕方なく会社へ行く準備を始めた。


自由奔放なだけではない、絵里子の一面とは?


贅沢は当たり前


会社のある大手町へ通いやすいようにと、門前仲町で一人暮らしをしていた藤田は、結婚を機に絵里子のたっての希望で港区へ越した。

「私、昔から陽の光が沢山入る大きなベッドルームのある部屋に住みたかったの。」

そう無邪気に語る絵里子の希望に少しでも近づけようと、藤田はかなり無理をして2人世帯には広すぎる部屋を借りた。

藤田は美食家ではあったものの浪費家ではないので、サラリーマンとしての給与はほぼ全額貯蓄と投資に回し、祖父から受け継いだ不動産収入を生活費にあてていた。

だが最近は少しでも絵里子の望む暮らしをさせてやりたいが為に、給与にまで手をつけている有様だ。

藤田は絵里子との予定がない日は近所のブランジェリーで買ったバゲットに、エシレバター、それにシンプルなスープを自分で作るといったような食事をしている。

だが、絵里子の方は少しも遠慮がない。

「藤田さん、私今度『ハインツ ベック』に行きたいわ。」

言わずと知れた、丸の内の高級イタリアンである。

内装は世界的なデザイナーである植木莞爾氏のデザインだし、カトラリーもクリストフルなどを使う、それはそれは贅沢な空間だ。

もちろん藤田も三ツ星シェフの名がついたこのレストランには何度か訪れているのだが、一度として同じメニューを出されたことがない。




「いいよ。じゃあ今度の金曜日の夜に予約を入れようか。」

「嬉しい!ねぇ、藤田さんはこのレストランに行ったことあるの?」

もちろん、と答えると絵里子は「ふぅーん」と言って、長い睫毛を伏せたままスマホでホームページを見始めた。

ベッドの上に寝そべる絵里子。部屋の中には、スマホ画面に触れるカタカタとした爪の音が時おり響く。

ふわふわとしたカラフルな部屋着を着ている絵里子の肌は、白くすべすべとしていて、見るからに柔らかそうだ。

「ねぇ、ここに行くなら、絶対にこの13品のコースを食べなくちゃいけないわよね。きっとワインも美味しいものを置いてあるんだろうな。こんなところに行けるなんて、嬉しすぎるわ。藤田さん大好き!」

そう言って、急に首まわりに抱きついてきたかと思えば、すぐにスマホの画面をNetflixに切り替えた。

腰にまわしかけていた藤田の手をぞんざいに振りほどき、何やら海外ドラマに熱中している。

「ねぇ、絵里子ちゃん。」

そう声をかけても、全く反応がない。

藤田はのそのそと立ち上がり、『ハインツ ベック』の予約をすべくリビングに戻った。

今月の家賃、新しく購入した家具など、カードからの引き落としが一体いくらになるのかも計算しなくてはならない。

今まであまり酒は飲まなかった藤田だが、その夜は思わず週末用の赤ワインを開けてしまったのだった。


絵里子の言いなり状態の藤田。その理由とは?


自由奔放で贅沢好きな妻とはいえ、藤田は若い嫁が家の中にいる幸せを噛み締めていた。

そこらに置かれた絵里子の私物は、キラキラとした蓋つきの化粧品やおもちゃのような鏡、藤田のそれとはまったく違う質感の洋服など、男ひとりの殺風景な暮らしを一気に明るくしてくれる。

その日も朝からシャワーを浴び、寝室へ戻ると絵里子がいつものように鏡台に座っている。




両親から来ていたメールのことを思い出し、藤田は絵里子の肩に手を置きながら声をかけた。

「絵里子ちゃん、今度の休みの日ね。僕の姉や両親が君に会いたいって言ってるんだけど、どうかな?どこかでランチでも兼ねて。」

両親は、65歳を過ぎている。姉は結婚せずに仕事に邁進しており、初めての子供の結婚に彼らなりに興奮しているのだろう。

だが、何やら顔をいじっていた絵里子が、急にこちらを向く。

「私、イヤよ。」

それだけ言うと、またプイッと鏡の方へ向き直ってしまう。

そこまでキッパリ断られるような提案をしたと思っていなかった藤田は、つい黙り込んでしまった。

結婚の挨拶以来こちらとは交流のない両親が、若い嫁ともっと交流したいと思うのは普通ではないのか。それを、急に同居でも提案したかのような反応だ。思わずひるんでしまう。

「でも、絵里子ちゃん。君も僕のお嫁さんになったわけだし、僕の両親は君のことが知りたくて、仲良くなりたくて仕方がないんだよ。結婚式のことも、相談しないといけないじゃないか。」

「ねぇ、私がイヤだ、って言った理由も聞かないで私を説き伏せようとするの、止めてくれない。」

絵里子の表情がだんだんと険しくなってくる。

夫婦のささいな諍いであればここは藤田が折れるところだが、老いた両親は藤田の遅い結婚を大層喜んでいるのだ。挨拶の時は緊張からか絵里子は全く喋らなかったので、急激なスピード婚の詳細も砕けた雰囲気で聞きたいのだろう。

「ごめんね。でも、どうして嫌なの?別に、ほんの数時間食事して喋るだけじゃないか。絵里子の好きそうなお店にするから。ね?」

絵里子は黙っている。

「ほら、そうしたらさ、この間欲しがっていた、デパートで見てたあのフェラガモの髪につけるやつ。食事会のためにあれを買って、つけていくのはどうかな?」

「カチューシャ?買ってくれるの?」

少しだけ、絵里子の表情が和らいだ。なぜだか藤田は、絵里子の不機嫌な顔を見ると、どうにかして彼女の機嫌を取らなければ、と心底焦ってしまうのだ。

「でも私、あれじゃなくて、ピアスが欲しい。髪の毛が短いから、耳元がさみしいとバランスが悪いでしょう?」

わかったよ、でも食事には来てくれよ、と念を押すと、絵里子は「もちろんよ」と満面の笑みで言った。

こんな時藤田はつくづく思う。絵里子に対して自分はもっと怒っていいはずだと。

だが、彼女を前にするとどうしても、正常な判断力が、虚しいほどに消え失せるのだ。

▶NEXT:11月10日 金曜更新予定
藤田の両親に会う絵里子。両親の反応は?