「大企業に入れば、一生安泰」

昔からそう教えられて育ってきた。

有名大学を卒業し、誰もが知っている大企業に入社。

安定した生活を送り、結婚し子供を育て、定年後は年金と退職金で優雅に暮らす。それが一番の幸せだ、と。

丸の内にある大手総合商社に勤める美貴(26)も、そう信じてきたうちの一人。

会社にいる同じ一般職の先輩たちを見ながら、「彼女たちのようになりたくない」とキャリアに悩む美貴

そんなときメガバンク勤務の彼氏・優太があっさり「結婚を考えて、安定している今の会社に残る」と言い放ち、違和感を覚える。

現状を変えたいと思っているのは、優太ではなく自分だ、と自覚した美貴がついに奮起する。




水曜日の19時。美貴は仕事をきっちり定時で終わらせ、東京八重洲口に向かっていた。

周りに転職活動だと気づかれないようを意識しつつ、普段あまり着ないきれいめな黒のジャケットにグレーのパンツ姿で、大手転職エージェントのオフィスを目がけて歩いた。

受付で待っていると、40代前半くらいの少しふっくらとした菅野美穂似の女性に名前を呼ばれた。

担当の女性は、小さいペットボトルのお水を美貴に差し出すと、早速今の仕事について、希望条件について、事細かに聞いてきた。

「このご経験ですと、ご希望の条件は難しいかと。」

美貴が一通り話し終えた後、担当のキャリアアドバイザーがピシャリと言い放った一言に、反射的に声が出る。

「そうですね…大きなキャリアチェンジとなると、年収ダウンや中小企業への転職になることは避けられないと思います。」

美貴の希望条件は、年収維持・興味のある食品関連の仕事という2つだけだ。それでも難しいと言われる現実に衝撃を受ける。

「美貴さんは食品関連のお仕事は未経験ですので…商社の一般職というご経験から考え、このあたりはいかがでしょうか?」

ーどれも知らない企業ばかり…。

キャリアアドバイザーが「ちょっとお待ちください。」と5分程席を外した後に持ってきた求人票に載っていたのは、どれも知らない企業の名前ばかりだった。

ーさすがに、名前も知らない企業は候補から外そうかな…。

あんなに意を決して転職サイトに登録したはずなのに、並べられた求人票を見ると尻込みしてしまい、美貴はまだまだ「大企業ブランド」を捨てられない自分の弱さを痛感するのであった。


転職市場で評価されない、一般職の“市場価値”とは


新卒採用とは別世界。転職市場での厳しい評価を突きつけられた商社OL


「転職市場では、所属していた会社名ではなく、これまでの会社でのご経験や実績が評価されます。」

現状だと、いくら財閥系総合商社勤めといえども“一般職”としての評価だ。また、商社で自動車のトレード業務を担当している美貴が、未経験の職種を希望するとなると、大手への転職は難しい。

キャリアアドバイザーの女性は、厳しい現実を丁寧に説明してくれた。

「ただし、美貴さんはまだ入社4年目ですので、ポテンシャル採用の可能性もあります。英語も話せますし、大手にこだわりすぎなければ採用したいという企業はたくさんあると思いますよ。」

そう言うと、担当アドバイザーは、一応名前を知っているお菓子メーカーの求人と日系コンサルティングの求人を美貴に薦めてきた。

「書類通過率は一般的に3〜4割です。まずは、とにかく応募することが大事ですよ!」




キャリアアドバイザーもボランティアで相談を受けているわけではない。彼女の仕事は、美貴を転職させることだ。

恐らく、美貴の反応から「大企業ブランド」を捨てられないことを察し、大手企業の中で美貴が受かる可能性が有りそうな企業を薦めているのだろう。

彼女の絶妙な“押し売り”は、美貴を冷静にさせた。

ーきっとこれが今の自分の経験の評価なんだ。

タクヤに「自分のやりたいことを考えてみなよ」と言われ、美貴は「以前から興味のあった食品関連の仕事」という考えを持って面談に臨んだ。また、新卒での就職活動で見ていなかった企業に、どのような仕事があるのか知りたかった。

しかし、現実は甘くない。

「応募するかどうか、少し考えさせてください…」

突きつけられた厳しい現実に、美貴の「現状を打破したい」気持ちは少しだけ引っ込んでしまった。


悩む美貴にエミリが伝えた本音。


「美貴、ちょっといい加減ため息つくのやめてよ。」

転職面談の帰り道、エミリにLINEで相談すると「私でよければ明日話聞くよ。」と言ってくれた。

エミリが久しぶりにシンガポール料理が食べたいと、『新東記クラーク・キー』を予約してくれた。明るい雰囲気の店内で、美味しいチリ・クラブを食べていると、嫌なことも少し忘れられ、心がスーッと癒されていくような気がした。




「私、エミリが私のことをもったいないって言う意味がようやくわかった。今の私の転職市場での“市場価値”が低いってことだよね?」

「ま、まぁ…そうね。それだけじゃないけど…。」

「え、どういうこと?」

いつも言いたいことをハッキリ言うタイプのエミリが珍しく美貴に何かを言うのを躊躇っている。

「言いづらいけど…美貴は先のことを考えているようで考えていない。私のパパは“会社と結婚するな”っていつも言ってたわ。

勿論、大企業で安定した生活を送りたいっていうのは否定しないし、一つの生き方だとは思う。でも、それは自分で“こういう仕事をしたい”と思って決めたことじゃないでしょ?」

ー自分だけで自分の人生を決めていない。

美貴は、この間の杏奈と梨花との会話を思い出す。

「自分で決めた道ならいいと思う。でも、後々、やっぱり自分はこうしたかったんだって思う日が来た時、美貴はどうするの?」

今の美貴には、エミリの言葉が痛い程突き刺さる。転職エージェントとの面談を終えた自分はまさにそれだ。

「もう自分の経験じゃ新しい仕事になんて挑戦できないんだって諦めて、悶々としながら過ごすの?それこそ美貴の言う“お姉さま”たちの仲間入りよ。」

ふと優太が「今の仕事は嫌だけど、今さら転職する勇気もないし、今の会社でそれなりにやっていければいいや」と言っていたのを思い出す。

俯く美貴に、エミリは少し困った顔を浮かべた後、優しく微笑みかけた。

「でも、美貴が自分で決めたことなら私は全力で応援するから。美貴のことを思って厳しいことを言ったけど、私はいつでも美貴の味方だからね。」

ーあぁ、もう少し早く気づきたかった…。

同じような環境で育ったにも関わらず、現実を客観視できているエミリを少し羨ましく思いながらも、「こんなことを言ってくれる友達がいて良かった」と美貴は心から思った。



「やばい、あと5分だ。ギリギリになっちゃった。」

経理部への支払伝票の回付期限が迫り、美貴は急いでエレベーターに乗り込んだ。

「おぉ!美貴じゃん!元気してる?」

サーファー並みに日に焼けた同期の潤が、エレベーターに乗っていた。潤とは入社1年目の時に仲が良く、二人が付き合うのも秒読みか、と噂されていた時期もあった。

しかし、しばらくして潤のシンガポール赴任が決まり、そこから二人はなんとなく疎遠になっていた。

ーそういえば、この間藤川さんと同じ日に辞令が出てたの忘れてた。

「シンガポールから一昨日帰ってきたんだよ。久しぶりに飲もうぜ。」

久しぶりに会った潤に、美貴は「う、うん。行こう行こう!」となんとなくぎこちない返事をして、潤より先にエレベーターを後にした。

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