悪い点ばかりが取りざたされがちですが……(写真:ManabuAsakawa / PIXTA)

今回の衆院選では、幼児教育の無償化や大学生の奨学金の増額などを各党が訴え、教育政策が争点の1つとなった。教育のあり方は国の競争力にもかかわる。日本の教育は国際的に見てどうなのだろうか。とかく日本人は自国のことを卑下しがちだ。そんなとき「外」の視点が大事になる。
イギリス人の教育研究者ルーシー・クレハンは、日本をはじめとする国際学力テスト「PISA」の成績上位国を訪ね歩き、その成果を『日本の15歳はなぜ学力が高いのか?――5つの教育大国に学ぶ成功の秘密』にまとめた。ユネスコに世界各国の教師の昇進コースに関するレポートを提出した実績も持つ彼女が、日本の小学校で班活動が重視される理由から「脱ゆとり」の是非までを独自の視点で論じ、わが国の教育に新たな光を当てる。

勉強すれば良い成績が取れる

日本の教育制度は、「最初は誰もが同等の知能を持っていて、学力に差が生じるのは環境や個人の意欲のせいだ」という前提に立っている。

といっても、日本人が、優秀な子とそうでない子がいるという考えを持っていないわけではない。日本で私を泊めてくれたイギリス人英語教師のジュリエットは、娘の友達のことをよく話してくれたが、クラスメートのことを「頭いい」とか「頭悪い」とか言いあっているのを耳にしたことがあるという。

こういう違いは、頑張って勉強するかしないかの結果として生じたものだと受け取られているのだ。ジュリエットの娘、18歳のリリーは次のように説明してくれた。「テストでもし落第点を取っても、それは頭が悪いせいじゃない。勉強しさえすれば、1番にはなれなくても、絶対に及第点は取れるはず。みんなそう思ってる」

この信念は、授業を通して、教師から子どもたちに伝えられる。小学校では活動のほとんどを〈班〉単位で行う。班の仲間と一緒に座り、一緒に勉強し、一緒に給食を食べ、一緒に学校じゅうを掃除する(見ているととてもかわいい。ただ、まるで『アニー』の孤児院の中を歩いているような気がする)。

したがって学習成果は班の努力として評価され、個々の生徒のあいだの初期の能力の違いは問題にされない。褒められるときも、個人ではなく班が褒められる。

このことに関して、私がインタビューを行ったALT(外国語指導助手)が詳しく説明してくれた。「アメリカ的な考え方を持っていたぼくが驚いたのは、よくできた子どもを褒めたときの、ほかの先生たちの反応だよ。たくさんの先生に、『いや、やめたほうがいい。そんなことをすると、ほかの子どもたちが荒れますよ。おべっか使いめ、たいしたことしてないくせにって』というふうに忠告されたんだ。だから、だんだんしなくなったよ」。子どもたちを差別しないように苦心している教師たちには、子どもはすべて同じくらいの潜在能力を持っているという確信がある。

中学校までは基本的に能力別のクラス分けをしないことも、こうした平等観念に基づいている。日本では1つのクラスに、最高峰の大学に入ることを目指している生徒も、数学が苦手で苦労している生徒も、野球の練習が忙しくて宿題にまで手が回らない生徒もいる。私自身はイギリスで、生徒を能力別に違うクラスに分けるというやり方を経験しているので、訪問した中学校の校長先生に、能力別クラス編成をしない理由を尋ねた。

彼はこう答えた。「日本には、万人に等しい教育を受けさせるという非常に強い信念があります。そういう伝統なのです」。OECD(経済協力開発機構)が実施する国際学力テスト「PISA」(生徒の学習到達度調査)の参加国の中で、数学の得点における親の社会経済的地位の影響が国際平均より低く、しかも得点は国際平均より高いという国はわずか10カ国しかなかった。日本がその中に入っているのには、こうした信念が関係しているはずだ。

失敗に動機づけられる子どもたち

努力によって物事は達成されると考える日本の子どもたちは、失敗したときにも、その失敗に刺激されてさらに頑張る。西欧の普通の子どもたちとは正反対だ。

この特異な現象について調べるために、日本とカナダの生徒たちに、RATという創造力に関するテストを行った有名な研究がある。その内容は、与えられた3つの言葉と結び付く言葉を1つ思い浮かべなければならない(たとえば「日(ひ)」「空想」「眠り」に対して「夢」という言葉を思い浮かべる)というものだった。

ポイントは、簡単な問題を出された生徒と難しい問題を出された生徒に分かれていて、テストの後で生徒たちは自分の答えを採点するように言われるが、そのときほかの生徒の得点も見られるという点だ。当然、難しいテストを受けた生徒は、自分はとても成績が悪いと思い込むし、簡単なテストを受けた生徒は、自分はかなり良くできたと信じる。

面白いのはこのあとだ。社会心理学の実験でよく見られるように、だましの要素が入る。生徒たちは、次はコンピューターを使って「心の知能指数(EQ)」のテストを行うと告げられる。しかし、テストが始まってから2、3分でコンピューターが「停止」してしまう。

実験者は困っているふりをして、「ちょっと席を外すけど、直すのに少し時間がかかるかもしれないから、よかったら別のRATテストをやっていてくれないか」と、生徒たちに言う。待っているあいだ生徒たちは、最初のテストの成績の良し悪しに応じて、新しいRATテストをする。実は、今度のテストでは簡単な内容と難しい内容が混ざっている。このテストで、日本とカナダの生徒たちは逆の傾向を示した。

最初のテストで悪い成績だったカナダ人の生徒は、成績の良かった生徒より短い時間で新しいテストをやめてしまった。自分が良くできると信じている生徒ほど、長時間続けた。つまり、彼らは成功に動機づけられていた。一方、日本人の生徒は、最初のテストで成績が悪かった者ほど、新しいテストでは成績の良かった者より長く頑張ろうとした。彼らは失敗に動機づけられているようだった。

日本とアメリカの生徒たちに、「知能は何パーセントが努力のおかげで、何パーセントが才能、つまり生まれつきの能力のおかげか」という質問をした研究も紹介したい。努力が占める割合について回答された数値を平均すると、ヨーロッパ系アメリカ人は36パーセント、アジア系アメリカ人は45パーセント、日本人は55パーセントという結果だった。

つまり、日本の子どもたちも、人によって生まれつきの能力の違いがあることを認識してはいるが、それより努力のほうが成績を上げる力があると考えているのだ。

ゆとり教育は本当に失敗だったのか?

そんな彼らのやる気を削いでしまったとされる、「悪名高き」教育政策がある。いわゆる「ゆとり教育」だ。1990年代の後半から2000年代の前半にかけてカリキュラムの3分の1を減らし、土曜日を段階的に休日化していき(最終的にはすべての土曜日を休日とした)、子どもたちに自分の興味を追求させるための「総合的な学習の時間」を設けた。

オックスフォード大学の苅谷剛彦教授は、1974年から1997年までのあいだに、学校外で子どもが勉強に費やす平均時間が減少したことを発見した。これは何より、やる気の問題だという。「落第点を取らない程度の成績で十分だと思うか」という質問に、「はい」と答える子どもの割合も増加している。苅谷教授によれば、やる気がこのように低下したのには、当時の社会情勢が関係しているという。

いわく、1990年代の経済状況により雇用機会が減少したせいで、良い学校に行けば良い仕事に就けるという、それまで「厳然たる事実」だったものを、子どもたちが信じられなくなったのだ。やる気の減退は、貧しい家庭の子どもたちにいちばん顕著だったという。ゆとり教育は労働者層の子どもたちに「勉強しなくても大丈夫だ」という誤った安心感を持たせてしまい、彼らを就職戦線でより不利な立場に陥らせた。

2003年に実施したPISAの結果が2004年に発表され、日本の読解力の得点が下がったとわかったときは、大騒ぎになった。ゆとり教育が槍玉に挙げられ、この時期の子どもたちは「ゆとり世代」というレッテルを貼られた。批判に応えて、日本政府は次第に数学や国語の時間を増やすようになり、2011年、ゆとり教育のほとんどは廃止された。教科書は厚くなり、「総合的な学習」に使われた時間の多くはほかの科目に取って代わられ、縮小された。

だが、ゆとり教育は本当に非難されるべきなのだろうか? 日本の教育システムはいつもPISAのテストで高い成績をおさめてきたが、おそらくそれは教育が重視されているおかげであり、入念に計画された授業のおかげであり、すべての子どもが定められたカリキュラムを習得できるし、習得しなければならないという信念が根付いているおかげだろう。

ゆとり教育が目指そうとしたこと


ところが、ほんのささいなつまずきで、政府はうろたえて、人々が嘆いている「受験地獄」の軽減と、見たことのない問題の解決において日本の生徒たちが世界一になる可能性の、両方に効果的だと思われた改革を廃止してしまった。

実は、2003年の結果は、ほかと比べてみてもそう大きな下落ではなかった。より根本的な問題は、そもそもこの改革が何をしようとしたものなのかが忘れられてしまった、ということだ。ゆとり教育は、PISAの得点を上げるためのものではなかった。子どもたちにかかるプレッシャーを軽減し、彼らの創造性や問題解決能力を伸ばすためのものだった。

2000年と2012年に子どもたちを対象に行った調査によると、学校に対する満足度はこの期間に、世界のどの国より増加している。そして問題解決のテストでは、日本の生徒は、PISAのトップだった上海をはじめ、ほかのほとんどの国よりまさっていた。私には、ゆとり教育が目指そうとしたことは、ちゃんと成し遂げられたように見える。