農学博士であり「独立系研究者」の小松正さんが選んだ、何者にも縛られない生き方とは?(撮影:村田らむ)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第14回。

大学にも研究所にも属さない、フリーランスの研究者?


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学者や研究者はどこで働いているのだろう?

すぐに思いつくのは大学や高専、研究機関、企業の研究開発部署あたりだろうか。しかし最近は、フリーランスとして活動している研究者もいる。

その草分けとして知られるのが農学博士であり「独立系研究者」の小松正さん(50)だ。

生態学や進化生物学など生き物に関連する分野を専門とする小松さんだが、かかわってきたプロジェクトは幅広い。2004年に「独立」して以来、水深1000mで使える野生生物用の計測機器の開発に携わったかと思えば、選挙ポスターの顔写真から笑顔度と得票率の関係性を分析した実績も残したりしている。

寝返りなどの動作には無反応で、ベッドから起き上がるときだけ反応するセンサーを介護医療分野向けに開発する一方、人間が言語を習得するときの身体の動きや音声をパターン化して全体の傾向を調べたりもしてきた。

それぞれのプロジェクトで自在に肩書を変えている。時に当該プロジェクト機関の共同研究員として、時にプロジェクト全体の総括研究代表者として、時に大学の非常勤講師として。しかし本分はつねにフリーランス。独立系研究者として何者にも縛られない生き方を13年以上続けている。

渋谷にある貸し会議室で2時間半、これまでの歩みをじっくり語ってもらった。そこから見えてきたのは、物心ついた頃に端を発するものすごくストレートな一本道だった。物腰が柔らかく、門外漢にも専門分野の世界を楽しく話してくれる。そんな親しみやすい人物像の根底に、非常に硬質なものを感じた。

小松さんが生まれたのは1967年1月の札幌市。電力会社で働く父と専業主婦の母のもと、3人兄弟の長兄として育った。家庭や親戚には研究畑に携わる人はおらず、アカデミックな情報に触れる場も特にない。あったのは、近所の山地にある原生林とそこに生息している生き物たちだった。


小松さんの地元周辺の航空写真(出典:国土地理院ウェブサイト)

「実家は札幌市の中でも最初に開拓された山鼻という地区で、石狩川の支流が削った扇状地に建っていました。扇状地は平地のすぐ側に山がある独特の地形になるので、子どもの足でも15分くらいで毎日行けたんですよ」

物心ついた頃から興味の対象は生き物だった。近所の山地から昆虫や小動物を捕まえてきては、飼育できる環境づくりに腐心する。家にある図鑑を開いても生物の名前がわからないこともしばしば。それでも生息環境などから餌や巣などを試行錯誤して構築するのが楽しかった。標本を作ったりもしたが、動き、反応し、成長する姿(生態)のほうが興味深く感じた。父は昆虫や小動物を好むタイプではなかったため、文句を言われないように、父が自宅でたどる動線上にはケージを置かないといった知恵も絞るようになっていく。

自分流でひたすら生き物に親しむ少年を小学校の同級生が一目置くのは当然の成り行きだった。しかし、それはほぼ虫取りのときだけ。運動は苦手で、勉強の成績も中の中。クラスで目立つ要素はほとんど持ち合わせていなかった。

自分なりに調べて理解していくプロセスが面白かった

「小学校の頃は理科も含めて勉強に興味がありませんでした。当時の教科は考えさせるというより暗記させるものという感じでしたから。自分が生き物に興味を持ったのも、なんだかよくわからないものがいるぞと。それを自分なりに調べて理解していくプロセスが面白かったんですよ。最初に答えを教えられて、覚えるだけというのはどうもやる気が起きませんでした」

その意識が変わったのは中学で科学部に入ってからだ。物理学や化学に熱中する先輩には親が学者の人もいて、たまに来る高校生のOBは好きな研究に打ち込めるという大学の面白さを教えてくれた。自分がこれまで1人で勝手に楽しんでいたことは、どうやらアカデミックな世界とつながっているらしい。交流を通じて自分の関心事を客観視できるようになり、進むべき道も少しずつ見えるようになっていった。

自分は生き物を研究して生きていこう。そのためには大学に行く必要があり、大学に行くには高校を出ないといけない。ならば学校の勉強も必要だ。

目標が定まったあとは持ち前の分析力と解決力を注ぎ込むのみ。中学入学時は平均以下だった成績は期末テストのたびに右肩上がりし、3年生の後半には学年でトップ10に入るほどになっていた。

高校に入った後も成績は上々。受験する大学は生態や進化の研究に熱心なところを深く検討したうえで、最終的に地元の北海道大学を選んだ。その分野で全国トップクラスにあったうえ、当時は入学後に獣医の道も選べる仕組みになっていたことが魅力だった。1985年4月、ストレートで入学する。学部1〜2年の教養の成績を経て、農学部農業生物学科に進学。獣医学部進学も可能な成績だったが、研究者になる意思を固めた。

あこがれのキャンパスライフは、かつて聞いた「好きな研究に自由に打ち込める」というほど甘いものではなかったものの、おおむね有意義だった。学部を卒業したあとは迷わず大学院の修士課程へ。主な対象は昆虫と植物で、アワフキムシ類(セミに近縁な昆虫の1グループ)の分類を出発として研究に勤しんだ。

ただし小松さんの研究範囲は分類学にとどまらない。生き物と生息環境の関係性を調べる生態学や、生き物の行動を研究する行動学、生物の種の起源や分岐などを解明する進化生物学にも及び、並行して打ち込むのが日常になっていた。

「生物学のなかでも分子生物学(細胞以下のレベルで生命を調べる学問)や生化学(化学的に生命現象を調べる学問)の研究には当時はあまり強い関心がなかったのですが、個体や集団のスケールで調べられる分野はとにかく好きで何でもやりましたね」

多岐にわたるゆえに得られるデータも複雑で、実験結果から知見を得るにも相当苦労する。統計学の分野で生まれたばかりだった解析技術「データマイニング」もいち早く取り入れて、研究効率を貪欲に上げていった。北海道の原生林や大学の研究室で研究対象に触れ、コンピュータにデータを打ち込み、最新の学術論文に目を通す。とにかく研究に明け暮れる毎日だ。

ただ、日本の大学院ではいくら研究に従事しても基本的には給与は支払われない。親の所得制限をクリアできず、修士課程の間は奨学金も下りなかった。実家から大学に通っていたため家賃の心配はなかったが、生活費はどうしていたのだろう。

「研究の合間を縫って、専門学校の非常勤講師や塾の先生、あと家庭教師もやっていました。短期間で稼げるバイトとなると、やっぱり自分の専門分野でやるのが手っ取り早いですから」

修士課程の終わり、年齢は20代半ばとなっていた。学部卒で就職した同級生は企業でそれなりの給与をもらい、修士後に会社勤めする同僚もそれなりの待遇を得ているようだった。それでも小松さんに焦りはない。

生き物の専門家として生きていくことしか頭になくて…

「なぜかは自分でもわからないんですが、生き物の専門家として生きていくとしか考えたことがなくて、企業に就職する発想を持ったことがありませんでした」

研究の道で生きていくとしたらその王道は大学だ。大学に籍を置いて研究を重ね、修士のあと博士課程に進んで博士号を取り、キャリアを積み重ねて教授を目指す。競争率は高いが、環境も予算も安定していて、長期的な研究に集中しやすい。研究者として理想の就職先であることは疑いようがない。

しかし、小松さんは修士課程の時点ですでに“疑って”いた。大学業界の内側からしか見えない現実をいろいろと知っていたためだ。

「さまざまな大学において、内部の人事や能力の評価で、一般的にもアンフェアだと判断されるであろう出来事が少なからずあるようでして。実験の環境は整っているし、すばらしい先生はたくさんいるんですけど、一部の疑問を感じる人が人事権を握ってしまうと、首をひねらざるをえない事態が起きるわけで。インターネットが発達した現在はかなりマシになっていますけど、当時は内側の情報はとことん隠せましたから。まぁそれで、この状態なら自分に合わないな、と」

物理学や化学など研究人口の多い分野なら納得できる研究室を探すといった手も打てるが、進化学や生態学はアカデミックな世界でもニッチな部類なので入れる研究室自体が限られている。望む研究に没頭できる環境がそろっていて人事的にもフェアに感じる環境を国内で探すのは困難だと感じていた。

ならば海外だ。国境を越えれば選択肢が増えるし、欧米の大学院ならうまくいけば十分な奨学金が出るので生活に困ることもない。ということで、博士課程に進学後、北海道大学に籍を置きながら海外の大学院を複数受験した。そして、米国のある大学に見事合格。本格的に留学に向けて準備していたところ、合格通知の後にもう1通の手紙が届いた。今年は奨学金が出ないという。1990年代前半当時の米国は景気が最悪の状態で、大学に割り当てられる予算が例年に比べて極端に低く、どうも留学生に回す奨学金の余裕がなくなったらしい。

「それでもいいなら来てくれということでしたけど、研究期間にはだいたい800万円くらいの生活費がかかると。それで、自費で暮らしていける証明に800万円以上の預金残高の写しを送ってくれと言われたんですよ。あるわけないですよね(笑)」

海外留学をあきらめ、北海道大学大学院の農学研究科で研究を進めること6年。1998年3月に博士後期課程を修了し、博士号を取得する。その翌月には日本学術振興会特別研究員という身分を得て、同大学の別の研究室に籍を置くことになる。いわゆるポスドクだ。

博士号を取ったあとに日本学術振興会特別研究員として3年間給与をもらいながら、大学を含む研究機関に籍を置き、そこで実績を作って大学の教員募集があったときに申請するというのがアカデミックな世界の王道の1つとなっている。特別研究員の競争率は高く、採用されなかったらあえて博士課程で留年して再チャレンジする人も珍しくない。小松さんも2度目の申請で採用された。

大学に残るという選択肢はすでに…

しかし、この時点ですでに小松さんの頭の中には大学に残るという選択肢はなくなっていた。思い描いていたのは新しい研究室を自分で作るというプランだ。

「私の研究は当時の感覚でいえば直接ビジネスにならないものなので、単独では成立しません。なので、研究に興味を持っている民間団体に働きかけて、その内部に本格的な研究がやれる環境を構築し、そこのスタッフになるということを考えていました」

当てはあった。多言語を自然習得することを目的としている民間団体・言語交流研究所(ヒッポファミリークラブ)だ。

学部生の頃、この団体が出版した『フーリエの冒険』という本に感銘を受け、学会で東京に行った際に本部に押しかけて以来、長らく交流を持っていた。


『フーリエの冒険』(ヒッポファミリークラブ)左が当時流通していたもので、右は2013年以降の新装版

「赤ちゃんが母国語を耳で覚えるように、大人でも多言語を音で聞いて習得できないだろうかと研究している民間団体です。人間の言語習得のプロセスやメカニズムを自分たちで調べようとしていて、『フーリエの冒険』もその取り組みの中で生まれたんですよ。

フーリエはどんな曲線でも三角関数で表せることを発見した人なんですけど、その法則や構造を理数系に詳しくない人がマスターするのはかなり大変です。彼らは相当苦労してそれをやった。音声を周波数でとらえてメカニズムを調べようと思ったら外せない領域ですからね。

そして、理解する過程をそのまま1冊にまとめたのがこの本なんです。何も知識を持たないところから始めているから、ものすごく読みやすくて、大学の書店のなかでも異彩を放っていました」

そこまで真剣に取り組んでいる団体でありながら、内部スタッフにプロの研究者はおらず、外部の研究協力者に頼る構造になっていた。しかし、交流を重ねるうち、自前で研究して論文を作りたいという意思があることを知る。そこに小松さんの意思が絡んでいく。

「ならプロの研究者を雇って、研究する環境をつくらないとダメですよ」

「そうなんですけど、雇ったことがないからどうしたらいいかわからないんですよ」

「では、いくつか雇用パターンを用意しますから、どれか条件が合致するもので私を雇ってください。赤ちゃんを含むヒトの行動パターンを分析するなら、私の生物学の知見が役に立ちますから」

かくして2001年4月、学部から16年間過ごしてきた北海道大学を後にし、小松さんは言語交流研究所初のプロの研究者として雇われることになる。34歳になっていた。

研究所は渋谷にあり、東京での暮らしが始まった。すると面白いことが起きる。

札幌にいたときよりも

「学部や修士で卒業していった仲間の多くは東京で就職しているので、札幌にいたときよりも友達と交流するようになりました。ずっと地元にいたのに札幌時代のほうが仲間が近くにいなくてさみしかったくらいです」

かつての仲間はそれぞれの組織でそれなりに決定権のある地位に上っていたり、膨大な人脈を築いたりしていた。飲み会に呼ばれて、雑談の流れで生き物の話をしていると、宴席の誰かがビジネスの表情で耳をそばだてているといったことも起きるようになった。生き物のことを聞かれれば知っているかぎり答える。子どもの頃からの性分だ。しかし、反響は友達の感心顔や賞賛だけではなくなっていた。

「時代的にも環境問題が叫ばれるようになっていて、生き物の世界とビジネスの世界がつながりやすくなっていたところもあります。『ウチはいまこういう開発しているけど、元からいる生き物は大丈夫かなあ?』と相談されたりしましたね」

上京して1〜2年もすると、そうした相談は飲みの席にとどまらなくなる。方々の機会で知り合った人が組織人として、正式なアドバイザリー契約を申し出たり、プロジェクト単位で協力を要請されたりするようになった。

言語交流研究所に勤務中はその仕事に集中し、平日夜や土日などを使って、そうした副業の仕事をこなす毎日。しだいに副業のボリュームが増えていき、内容的にも興味が引かれるものが多くなっていった。忙しくなるにつれて収入も上がり、本業を上回る月も珍しくなくなった。

それなら、このスタイルで十分食べていけるんじゃないか。

そう思い立った小松さんにもう障壁はない。2004年4月、言語交流研究所との雇用契約を非常勤の技術アドバイザーに変更し、事実上のフリーランスとなった。そして、自宅兼事務所に小松研究事務所を設立。ネーミングは、弁護士や司法書士などの士業事務所を参考にした。

士業と同じようにプロの研究者が拠点を構えて、さまざまなクライアントに相対して報酬を得る。そういうスタイルを体現したものだ。肩書はネットの新聞記事で見掛けた独立系研究者を採用した。イギリスの独立系研究者(Independent Researcher)が組織を作ったというニュースの訳文が元。海外では当時から独立系研究者が活躍していたわけで、同じ研究職でも身の処し方に国ごとの差が大きかったことをうかがわせる。

不安をまったく感じないわけではなかった。しかし、「大学の内部で必ずしもフェアじゃない人事を知ったときのほうが断然大きかった」という。道理の通らない状況に身を置くより、不確かながらも世の中の摂理に即した環境にいるほうが心安らぐ。よくわからないものを自らの力でわかるようにして遊んでいた、子どもの頃からの性分、そして自信が根底にあると感じた。


14年前と比べると、とにかく説明が楽になりました(撮影:村田らむ)

おそらく多くの業界で生じている変化


『いじめは生存戦略だった!? 進化生物学で読み解く生き物たちの不可解な行動の原理』(筆者撮影)

現在、独立系研究者となって14年目に突入している。

その間に忙しさや収入の波もあったが、おおむね順調だと振り返る。複数のクライアントとの仕事を並行してこなしているので、1つや2つが途切れたり問題が生じたりしても致命傷にはならない。穴ができても、これまで培った人脈や会合の場でのつながりが新たな仕事を呼び込んでくるので、積極的に営業をかけることもない。

独立して3年目に結婚したが、仕事のスタイルは特に変わらず、マイペースに熱心に研究に打ち込める日々が続いている。冒頭に挙げたようなプロジェクトをいくつもこなし、2016年12月には一般向けとしては初の単著となる『いじめは生存戦略だった!? 進化生物学で読み解く生き物たちの不可解な行動の原理』も上梓した。

14年前と比べると、独立系研究者としての仕事はかなりやりやすくなっているという。

「とにかく説明が楽になりましたよね。今はフリーランスとして学術研究に携わることが、それなりに理解してもらえます。この10年でインターネットによる情報共有の技術が非常に発展して、昔だったら組織でないとやれなかったことが個人でもかなりの範囲で可能になっています。だから、おそらく多くの業界で生じている変化だと思いますよ。

また、私の専門分野である生き物のことやデータマイニングのことが、世の中で主流化しつつあるとも感じています」

舗装があったりなかったりした道をとにかく一直線に進んで、小松さんはなるべくして独立系研究者になった。そして、そのスタイルを変えず、定年も設けず、死ぬまで続けることを目標にしている。これから予想だにしないことも起きるだろうが、きっとこの一本道は直線のままだろうと思う。