度重なる怪我を乗り越え、最後にピッチに立ち、躍動する姿を見せられるか?(C)SOCCER DIGEST

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  FC東京の石川直宏は、横浜から加入した2002年から(当初は期限付き、03年8月7日に完全移籍に切り替え)ほぼ毎シーズン、コンスタントに『サッカーダイジェスト』本誌のインタビューに応じてくれた。その言葉を追うことで、彼の成長の軌跡も見えてくる。
 
 加入当初、いったい、どんな話をしていたのか。興味深かったものを紹介したい。
 
 まず2003年1月、選手同士の対談連載『J談』の第1回目に、石川は当時チームメイトだった茂庭照幸(現・C大阪)とともに登場している。
 
 神奈川県に住んでいたふたりの初対戦は、小学校高学年(5年か6年)の時だったという。ふたりは『初対戦』を次のように振り返っている。
 
茂庭 たしか俺がナオ(石川)にマンマークでついたよ。そしたらチンチンにされてさ(涙)。
 
石川 身体がすごくデッカくて、一番嫌なタイプのDFだなって、それがモニ(茂庭)だった。DFなのに、背番号9をつけていたのを覚えているよ。
 
茂庭 ナオ(石川)は神奈川ではスーパーな存在だったから、みんな一目置いていた。一方で、俺は足元の技術がないってよく監督から怒られて、それで仕方なく守備をするようになったんだよ。そしたら、いつの間にかDFにポジションを下げられてさ。
 
石川 それで中2の神奈川選抜で、チームメイトになって。ただ世代別の日本代表に選ばれたのはモニのほうが先だった。僕にとっては、モニはいつも先を行く存在だったよ。
 
 2003年のワールドユース(現・U-20ワールドカップ)を目指すユース日本代表に、茂庭が18歳、石川が19歳で選ばれる。そうやってふたりは切磋琢磨し合いながら、今日に至る。
 
 ともにプロフェッショナルとして18年目を迎える。そして、まず一足早く、石川のほうがスパイクを脱ぐ決断を下した。
 2004年1月発売号のインタビュー「限界と可能性」では、『東京都人権啓蒙活動ネットワーク協議会「人権メッセージ集」』に、石川が次のような想いをつづっていたことを引用している。
 
限界は自分が作ってしまうもの
可能性は無限に広がっているのだから…
難しく考えなくたっていい
自分を信じて
自分のペースで
                                         
 2003年、22歳の石川はFC東京とアテネ五輪代表の主力に定着し、12月にはA代表デビューを果たしている。自身の新境地を切り開くなか、同年10月に記したこのメッセージに込めた想いについて、彼は語っている。
 
「僕のありのままの気持ちでした。昨シーズンは、武器であるスピードを生かすことを追求しながら、試合中に判断しながら、攻撃のバリエーションが増えました。そのなかで、苦手だった左足をひとつの新たな武器にできたことは大きかったです」
 
 鋭い閃光を放つ稲妻のように突き抜ける縦へのドリブル突破に加え、カットインからの左足のシュートを身に付けて、公式戦通算8ゴールを奪取。アマラオや佐藤由紀彦が牽引してきたFC東京で、新たなチームの顔と言える存在になっていった。
 
 一方、当時は代表チームの対外試合が今以上に活発に行なわれ、石川はA代表、アテネ五輪代表(U-21〜23代表)、そしてFC東京と3つのチームを行き来するなか、コンディションが上がらず苦しんだ時期があったとも明かしている。
 
「夏頃、何かやろう、やろうとするたびに、空回りしてしまい、ちょっと悩んだ時期がありました。悪いほうに行くと、もっとやらなきゃと思い、逆にハマってしまう。それも初めての体験でした。ただ、そこで難しく考えず、もっとシンプルに対処するようになっていきました」