評論家としてテレビを始め、幅広いメディアで活躍中の金美齢さん。しかし、現在に至るまでには夫である周英明さんとともに「台湾独立運動」に長年関わり、死刑にされる危機もあったという激動の半生を歩んできました。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で、著者の伊勢雅臣さんが詳しく紹介しています。

台湾独立の戦い

「昭和36(1961)年4月、羽田空港に降り立った私は、人目がなければ、地面に跪(ひざまづ)いてキスをしたいくらいにうれしかった」。台湾から東京大学に留学した周英明さんはこう思った。翌日井の頭線に乗って渋谷に向かう車中、笑いがこみ上げて、我慢できなくなってしまった。

とうとう、本当の自分、周英明に戻ることができた! もう誰に対しても自分を偽る必要はない。台湾を支配する国民党の連中、ざまあみろ。私はお前たちの手中から逃れて、自由な国に来ることができた。もう二度と、絶対におまえたちには捕まるものか! ざまあみろ。

(『日本よ、台湾よ─国を愛し、人を愛すること』金美齢、周英明 著/扶桑社)

戦後、日本が引き上げた後で、台湾では蒋介石の国民党により恐怖政治が行われた。周さんはそこから脱出してきたのだった。

台湾人の怒り

遵法観念なし、衛生観念なし、教養なし、文化レベル最低の中国人が警察・軍隊・役所など、権力を全部掌握して、好き勝手なことを始めたからたまらない。

(同上)

これが終戦直後の台湾だった。

日本統治時代の台湾は米は豊作、一級品の砂糖の生産も盛んだった。その砂糖や米穀を、中国兵のトラックが次から次に運び出して、中国大陸に売ってしまった。軍や政府の上層部が、金儲けのために勝手に持ち出すのである。その結果、飢饉を知らなかった台湾で米不足になり、極度のインフレが生活を直撃した。

また中国海軍が香港あたりから密輸してきた外国たばこを、元締めから仕入れた台湾人が街頭で売る光景が見られるようになった。国民党政府は専売で売っている台湾たばこの売り上げが落ちるので、これに目を光らせていた。警官が来ると、たばこの密売人は一斉に路地裏や物陰に隠れてやり過ごす。

1947(昭和22)年2月27日夕方、たばこの密売で生計を立てている未亡人が逃げ遅れて捕まってしまった。「子供がいるんです」「生活に困っているのでどうかお見逃しを」と土下座して懇願するその未亡人から、取締官は密売たばこを取り上げ、ジープで連行しようとした。抵抗する未亡人は取締官に小銃の台座で殴られ、頭から血を流した。

一部始終を見ていた群衆は、はじめは「許してやれよ」というヤジを飛ばしていたが、それが「やっちまえ」にかわり、危険を感じた取締官は群衆に向かって発砲し、けが人が出る騒ぎになった。

民衆の怒りは収まらず、翌28日朝、膨れあがった群衆は「発砲してけがをさせた警官を処罰しろ」と専売局前の広場に押し寄せた。2階のバルコニーにいた警備兵が広場の群衆に向かって機銃掃射し、数人の死者が出た。この事件で、これまで我慢していた台湾人の怒りが爆発し、各地で暴動が起きた。

血の海のなかの先輩の遺体

この時、周さんは高尾中学1年生だった。周の兄たち上級生は小銃で武装し、「中国人を追い出そう」と演説をして、校舎の守りを固めた。

数日後、高尾中学は中国軍に包囲された。銃撃戦が起こり、双方で死傷者を出した末に、校舎は中国軍に占拠された。中国軍に追い詰められて最後に残った兄たち数人は、銃を捨てて塀の崩れたところから、かろうじて逃げのびた。

しばらくして、中学校が再開されることとなり、周が朝、家を出ると駅前広場で黒山の人だかりができていた。なかの様子を窺った周さんは、ショックで顔面が蒼白になった。公開処刑が行われた直後で、3人の遺体が血の海の中で横たわっていた。そのうちの一人は周さんの知っている先輩だった。

その光景を見た瞬間、周さんの体の中にあった道徳心や勇気、正義感は凍りついてしまった。もう金輪際、政治に関わったりはすまいと心に誓った。その後、高校に入り、台湾大学の受験をめざして勉学に打ち込み、政治に関わることを避け続けた。

台湾大学に入学し、大学のそばの学寮で生活を始めた。国民党政権によるテロが続いており、少し不用意な発言した人はいつの間にか学校から消えていなくなった。しばらくすると近くの河原で銃殺死体で見つかる。

大学を卒業すると、1年半の義務兵役が始まった。炎天下に来る日も来る日も演習ばかりさせられた。蒋介石を頭とする一族郎党のために、辛い軍事訓練を受けて、「毛沢東をやっつけろ、それがお前たちの使命」だって? 腹の中では憤懣でいっぱいだった。

やっとのことで兵役を終えて、台湾大学に助手として戻った。腹の中で膨れ上がる反逆心がいつ爆発するか、もう限界に来ていた。そのころ日本の文部省が国費留学制度を開始した。この道しかない! 周さんは猛勉強して試験に合格し、東京への切符を手にしたのである。

「台湾?」

東京について、とうとう本当の自分に戻ることができたと舞い上がったが、1ヶ月も経つと別の思いが頭をもたげてきた。

学者になりたいという道は開け、私は前途洋々である。しかしそれは個人的な問題が解決されただけではないか。…

 

両親や兄妹、親戚、学友はみんな、今も台湾で苦しんでいる。蒋介石を頭とする国民党政府の圧政は、少しも改善されていないではないか。

(同上)

自分は一体、どうすべきなのか。頭を抱えながら、時間が過ぎていった。そんなある日、留学生会館の図書室で『台湾青年』という雑誌が目に留まった。「台湾?」。台湾と名前をつける事は、反体制・独立を意味することから、台湾国内では絶対にタブーだった。

なかを読んで驚いた。口にするのも憚られる「台湾独立」や「蒋介石の独裁体制」という言葉が並んでいる。しかもよく読めば、日本にいる留学生たちが作っているようだ。

たぶん自分と年格好もそう違わない留学生、ほんの一握りの台湾人青年たちがこんなにも勇敢に戦ってるのだ。その夜、周は興奮して一睡もできなかった。「怖い、怖い」と逃げている自分が、ひどく小さな、卑怯な人間に思われた。

そして今まで自分が受けた台湾の人々や台湾社会からの恩義を想うと、台湾の最高学府を出た自分が何もしなければ、一体この台湾は誰が救うのか、このままではいけない、という気持ちが高まっていった。

「独立運動に加わろう」

『台湾青年』を読んだ感激を何とか伝えたいと思って、匿名で編集部に投書した。すぐには彼らの仲間にならなかったが、匿名で政府批判の文書を作成し、あちこちに配るようになった。

ある日、在日中華民国大使館からで呼び出し状が届いた。ギクッとしたが、行かなければかえって怪しまれると思って、恐る恐る出かけて行った。大使館の文化参事官は周さんを家に連れて行ってご馳走し、最後に「いろいろ仕事を手伝ってもらいたい」と切り出してきた。

毎月、金を支給するので、台湾からの留学生たちがどこで何を言ったか、定期的に報告してもらいたいという。スパイになって友達を売るなどという真似ができない事ははっきりしていた。しかし断れば「政府の言うことが聞けないのか」となるだろう。

悩みに悩み、そして決心した。「大使館の要請は断ろう。エイ、毒をくらわば皿までだ、独立運動に加わろう。もう自分の心に嘘つくのをよそう」

台湾国内で独立運動すれば命がけ、国外ならパスポート剥奪、親兄弟をはじめ一族郎党がブラックリストに載る運命が待っていた。年老いた父母の顔が目に浮かんだ。「これで台湾には、帰れなくなります。いろいろ心労をおかけする親不幸をお許しください」と、唇を噛みながら、周さんは心の中でわびた。

「『台湾青年』で小説を書いている孫明海ってあなたでしょう」

そんなある日、周さんは会合で紹介された一人の女性に一目惚れした。そばにいた友人に「何者だ」と尋ねると「ああ、彼女はね、大使館の特務四天王だから、あんなのに近づいたらダメダメ! いつも大使館に雇われて通訳をやってるし」と教えてくれた。特務とは大使館の手先として諜報活動するスパイで、その四天王の一人だという。周さんはがっかりした。

その女性、金美齢さんは通訳をやっているのはアルバイトのためだけで、密かに『台湾青年』を読んでいた。何度か2人で顔を合わせて話をするうちに、金さんは周さんの考え方や話し方から「独立派」との「信号」をキャッチしていた。たまたま2人だけで話す機会があった時、「『台湾青年』で小説を書いている孫明海ってあなたでしょう」と切り出した。

金さんは日本統治時代の台湾に生まれ育ち、やはり国民党政権に反発して、ある日本人の助けで日本に留学した。日本では学生運動のまっただ中で、金さんは、若者がこれほど自由に政治的な発言ができることに衝撃を受けていた。

ある日『台湾青年』という雑誌が届き、みんなが恐れおののいている台湾の政治や社会の問題をはっきり指摘する勇気のある人々がいることに驚いた。やがて得意の語学を使って大使館の通訳を務めるようになったが、仕事は仕事と割り切り、その陰で『台湾青年』の編集者たちと接触していた。

「孫明海ってあなたでしょう」とズバリと指摘され、周さんは「いやー、ハッ、ハッ、ハッ」とごまかしたが、「よくわかったなぁ」と内心、舌を巻いた。そのうちひょんなことから彼女の自宅で食事に招待され、2人だけでずっと話した。

翌日の朝、周さんは彼女に電話した。「僕と結婚してください」といきなりプロポーズした。「はい」と言う返事が、電話線を通してすぐに戻ってきた。

パスポート没収

2人が結婚して数ヶ月後、周さんのパスポートが更新時期を迎え、大使館で更新の申請をしたが、その後、いくら待っても連絡がない。独立派と旗幟を鮮明にしたので、パスポートを没収されたのだ。周さんは残念に思うこともなく、国民党政府と縁が切れた事に心からの開放感を味わっていた。

当時、日本政府は国民党政府と取引して、日本国内の独立運動家一人を引き渡せば、麻薬密輸で捕まった台湾人8人を引き取らせるという密約をしていた。実際に周さんの仲間の一人は大学を卒業して、滞在理由がなくなったので、勾留されて、台湾に送還される事になった。

仲間たちが阻止しようと、羽田空港の歓送迎デッキから飛び降りて、警官隊と大乱闘になったが、奪還できずに、台湾に送られた事もあった。しかし、日本でこれだけの大騒ぎになった事で、台湾では死刑を免れた。

やがて子供もできたが、強制送還の恐怖は常に身近にあった。2人は万が一に備えて遺書を準備し、死に方を考え、子供の行く先を考えた。その覚悟をもとに、勉強しながら生活費を稼ぎ、子供を育て、独立運動を続けた。

やがて周は博士号を取得し、指導教授が粘り強くいろいろな大学にあたってくれて、東京理科大学の非常勤講師の職を見つけてくれた。さらに1年後は学科の主任教授や学部長が動いてくれて、常勤の助教授に昇格した。外国人の専任教員は前例がない時代だった。

それまでは毎年、滞在許可を更新しなければならなかったが、ようやく永住資格を与えられた。2人は台湾には帰れないと思っていたが、台湾独立のために最後までやる覚悟でいたので、日本の国籍はとらなかった。

「日本が本当に反省しなければならないのは、戦前ではなくて戦後である」

2000(平成12)年3月、李登輝総統の後任として陳水扁総統が誕生した。台湾人で、しかも独立を標榜する民進党から生まれた総統だった。ようやく台湾に帰れるようになった。8月28日、2人と長女を乗せた中華航空機が台湾の大地に着陸した。周さんにとっては40年ぶりの帰国である。

前総統の李登輝氏は2人を自宅に招いて温かくもてなし、ねぎらってくれた。周さんは「李登輝総統が勇気を持ってこの民主化、自由化の改革を行われたおかげで、私は生きてるうちに台湾に戻ることができました」と挨拶した。

日本統治時代に育った李登輝氏は「日本人がその理想をつぎ込んで育成したのが、私と言う人間なのです」と語っている。言わば戦前の「日本精神」が李登輝氏の体を借りて、台湾の民主化と自由化を進めたとも言える。

「日本精神」とは戦後の国民党政治への不満と恐怖の中で日本統治時代の公正な巡査、教育熱心な先生などの生きざまを懐かしんで生まれた言葉である。その反対が、不公正、無責任、欺瞞、金が万事、を意味する「中国式」である。

敗戦で台湾を放棄した日本は、中国と国交回復した昭和47(1972)年にも「台湾は中国の一部」との中国の主張を認めてしまった。日本は二度、台湾を捨てたことになる。「日本が本当に反省しなければならないのは、戦前ではなくて戦後である」と金美齢さんは言う。

そして今、台湾と日本は同じく大陸からの過去最大の脅威にさらされている。蒋介石政権からの「台湾独立」を成し遂げた台湾人から、現代の日本人は「日本精神」を学んで、ともに力を合わせて独立を守らなければならない。

文責:伊勢雅臣

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