(左)東京理科大学 副学長 向井千秋さん(右)結婚式はあげず、お祝い用の写真も撮らなかったため、新婚当初を懐かしむ写真がないそう。写真は両親が30代の頃のもの。母・ミツさんは25歳で父・喜久男さんと結婚。27歳のときに長女・千秋さんを出産。

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日本人女性初の宇宙飛行士の向井千秋さん。「医者になるために東京の高校に行きたい」と中学3年生から東京で下宿。そんな要望を快諾してくれたのが、向井さんの「肝っ玉母さん」でした。ところが、94年、はじめて宇宙へ行く際には「ロケットを止めてぇ〜!」と泣き叫んだそうです――。雑誌「プレジデントウーマン」の好評連載からお届けします。

母は昔も今も私が目標とする女性。超えることのできない大きな人です。現在92歳。今なおパワフルに社会と関わり続け、私がアメリカに滞在していると、1人で遊びに来ることも。あの大胆さと行動力は私には太刀打ちできません。大正生まれで、戦時中を生き抜いた人が持つたくましさとしなやかさは、戦後生まれの私にはどうやっても身につけることのできない強さですね。

母は、1925年(大正14年)、栃木県と群馬県の県境で10人きょうだいの3番目として生まれました。上州地方は寒さが厳しい自然環境。土地は貧しく、稲作より養蚕が盛んなため、養蚕はもちろん製糸や機織りに従事する女性が多く、男性に頼らず独立した働き者が多いことから「かかあ天下と空っ風」といわれるほどの土地柄。だから、女性が仕事を持つことは当たり前。そんな土地柄に加え、母は戦争体験があるので、限られた人生を楽しもうという気持ちが強いのでしょうね。

戦時中、東京・浅草で日本刺繍(ししゅう)の店を営んでいた父の家族が群馬県館林市に疎開していて、母はそこに日本刺繍を習いに行っていたんです。その日本刺繍の師匠が私の祖父。でっち奉公からたたき上げられた職人気質の祖父がまず母を気に入ったそうです。当時の浅草は、今の東京・青山のようなおしゃれの最先端スポット。そんな所で長く生活をしてきた祖父には、おおらかでよく働き、底抜けに明るい母が新鮮だったのでしょう。あるとき、祖父から「きんぴらゴボウをつくってくれ」と言われ、ゴボウをぶった切っただけのきんぴらゴボウを用意したら、驚かれると同時に「ささがきにされた、こぎれいなきんぴらゴボウより旨い!」とひどく喜ばれたそうです。それで「ぜひ、息子の嫁に」と請われ、父と結婚したのです。戦後、生活が落ち着き、祖父は東京へ戻っていきましたが、教員をしていた父は、母と群馬県に残ることに。

■結婚式はあげず、結婚資金を店の開業資金に

母は、祖父から習った日本刺繍を生業(なりわい)にしていました。芸子さんがひいき筋に配るハンカチや、デザインの古くなった帯を刺繍でアレンジしたり、GHQの兵隊さんが本国に持ち帰る日本土産に刺繍したり。当時は東京からどんどん注文がきて、ずいぶん忙しくしていたようです。父との結婚が決まって、「結婚式の足しに」と祝い金をいただいても、母は結婚式はしないと言い張り、その祝い金をそのまま、日本刺繍の技術を生かしたカバン店「べにや」の開業資金にあてたそう。父も現実的な人だったので、母の思いに即賛同したようですね。

当時は、農家でも日々の食事に困る人が多く、そんな人たちが住み込みでお店の手伝いや家事をしてくれていました。若い人よりもばあや、じいやみたいな人がほとんどでしたが、多いときで10人ほどいましたね。家族はもちろん、お手伝いの人全員が一緒に食事する時間も場所もないから、大皿料理を並べて、手の空いた人から食事を取っていました。店が忙しく、私たちきょうだいが両親と一緒に過ごす時間はありませんでした。幼い頃、家族で一緒にご飯を食べた記憶もありません。小さな間口のお店からスタートしたカバン店は皆の努力で、数度の移転を繰り返すほど繁盛。そんな忙しい最中でしたので、とくに長女の私と長男の弟の2人は、人手が足りなくなる盆暮れ正月は東京の親族に預けられることも。でも、私たちの周りにはいつも人がいたので、ひとりぼっちになることはありませんでした。そんな経験も今考えればプラスに。誰からも好かれるよう「挨拶」の大切さも母から厳しく教えられました。

■4人の子どもの教育資金は惜しまない

母自身、ピアノを習いたくても習えなかった、高校に進学したくてもかなわなかったという思いが強く、母の年の離れた一番下の妹の高校進学費用も出してあげたそうです。だから、私たちにも「嫁入り道具は用意できないけれど、勉強したいことがあれば何とかお金を工面する。だから、身につけたいものが何かを自分で見つけなさい」と言われていました。私は4人きょうだいの長女。3歳下の弟は幼い頃、歩行障害があって、治療のために東京の大学病院まで電車で通っていたんです。その頃ですね、将来は医者になりたいと思うようになったのは。どうすれば医者になれるか考えたとき、東京に出ようと思ったのです。医学部のある東京の大学をめざすには、高校から進路を絞って勉強するべきだって。それで、東京の高校に行きたいと両親に相談すると、快諾してくれました。おかげで、中学3年生から東京で下宿生活をしながら勉強し、慶應義塾女子高等学校に入学。一般試験を経て、慶應義塾大学医学部に進学しました。

そんな肝っ玉母さんですが、94年、私が初めて宇宙へ行く際、カウントダウンが始まると絶叫したそうです。「ロケットを止めてぇ〜!」と叫びながら、おいおい泣いていたんですって。宇宙滞在中に家族から届いたファックスでそれを知ったのですが、出発まで普通に接してくれていた母がそんなに取り乱すなんて想像していなかったからビックリ。心配を掛けてしまったなぁと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。2度目の打ち上げの際は、母も腹をくくったようで、絶叫することなく見送ることができたようです。

父は10年以上も前に亡くなりましたが、母はまだまだ元気。胃ガン・腸ガンで、胃と腸をそれぞれ半分切除しましたが、「本当に切ったの?」と言われるほど食欲旺盛で、キャリーバッグに野菜や乾物をたくさん詰め込んで、私の滞在先に料理をつくりに来てくれるほど体力も十分。いなり寿司や煮物などをたくさんつくって、冷蔵庫をいっぱいにして帰っていくんですね。実家のカバン店は末弟が継いでいるのですが、母は「同居したらゆっくり遊べなくなるからイヤ」などと言って、いまだに1人暮らし。3階にある自分の部屋から1階のお店まで、時間は掛かりますが一人で上り下りできますからね。母の同級生はほぼ亡くなっているようで、今では父の元教え子と遊び回っています。ぼける暇はありませんよ(笑)。

人を大切にする生き方、人生を楽しむ生き方を母に教えられました。24時間をどう使うか、人生の過ごし方は人それぞれ。その人が納得できる生き方ができればいい。でも、納得のいく人生は、仕事を通して見えてくるものだということも母に教えられましたね。

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向井千秋(むかいちあき)
1952年5月6日、群馬県出身。医学博士/JAXA所属。慶應義塾大学医学部卒。同大学出身者初の女性外科医。心臓血管外科医として勤務するなか、NASDA(現JAXA)選抜の宇宙飛行士候補者に選ばれ、日本人女性初の宇宙飛行士に。スペースシャトルに2度搭乗。

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(東京理科大学 副学長 向井 千秋 構成=江藤誌惠 撮影=国府田利光)