「Amazon Echo」を筆頭に、AIスピーカーと呼ばれる製品が売れ始め、AI(人口知能)とVR(バーチャル・リアリティ:仮想現実感)AR(オーグメンテッド・リアリティ:複合現実感)を架橋する技術があちこちで話題になっています。

 ネタとしてこうした話題に焦点が当たることは、関連する技術にコミットしつつ長年音楽の研究室を率いてきた一個人として歓迎したいと思います。

 同時に、いま話題に上る商品の大半に、原理的な限界が明らかであるのも指摘しておきたいと思います。

 例えば音楽音響と音声言語の両者は、脳認知明瞭性など様々にトレードオフの関係があります。

 そうした細部に顧慮した製品はまずもって目にすることがなく、昔から言われながらついぞメジャーになることのない「夢の未来の諸製品」の隊列に加わる可能性が高いものもあるように思います。

 いまから35〜40年ほど前、私がティーンだった頃、「これから21世紀はコンピュータ―が生活の随所に普及するだろう・・・」といった夢が語られました。

 それ自体は間違いなく進んでいると思います。しかし、当時語られた「テレビ電話」と、現在普通に用いられるスカイプとの間には大きな隔たりがあります。

 本質的な違いとして「インターネット」などというものを一切考えることがなかった1970年代〜80年代冷戦期の基本前提を挙げるべきでしょう。

 同様に、中学高校生当時、米国製の「未来図」としてしきりに耳にした中に、一家の中心は食卓であり冷蔵庫である、という話がありました。

 21世紀になっても人類は人類だ。技術は様々に変化しているだろう。でも変わらないものは「食だ!」。食べることを中心にまた家族を中心に考えれば、「考える冷蔵庫」が未来の中心にあるに違いない・・・。

 そんな話をたくさん聞かされ、「そんなものかなぁ」と思いつつ、またそれで一定の投資動向などもあったに違いありません。

 しかし2017年現在、家電の情報化やIoTは様々な進展を見せているものの、家庭や食卓を中心とする「冷蔵庫」の情報化がとりたてて進んだわけではない。

 市場はそういう「未来予測」を見事に裏切りました。

 家庭はモナド化し、個人が電話をネットワーク接続されたコンピュータ―として活用する、21世紀第2ディケード後半を迎えています。

 「AIとVR/ARのコラボレーション」は悪い響きがしませんが、本当に市場が選択する商品はごくごく限られます。たぶんほとんど残らないでしょう。

 2030年になっても、いまとあまり変わらないオーディオ・ビジュアルのI/O状況が普通に見られることでしょう。

 それを実感するには、東芝がスポンサーを務めるテレビアニメーション「サザエさん」がお薦めです。

 高度成長末期にスタートしたこの国民的お化け番組は、スポンサーの意向も汲みながら、様々な家電製品を画面に登場させ、テクノロジーと庶民生活の羅針盤、あるいはメーカーの商戦意向と消費者の肩透かしのオンパレードになっているかもしれません。

 1970年代に急速に普及した「チン」電子レンジは、同じ頃、マイクロプロセッサ=ワンチップ・コンピュータ―がもたらしたサプライ・チェーン・マネジメントの産物と言うべきコンビニエンスストアーとともに、完全に日本庶民の生活に定着しました。

 しかしそれ以降、どれくらい、ごく普通の家庭電化製品に本質的な変化がもたらされたか・・・。

 見落としていたらご指摘いただきたいのですが、1970年前後の「電卓戦争」の副産物としてマイクロプロセッサが登場、当時の家電製品に軒並み搭載されて以降、風景として本当に変わったのでしょうか?

 白物家電で私がパッと思いつくのは、せいぜい一槽式の全自動洗濯機程度です。細かなイノベーションは冷蔵庫にも冷凍庫にも、炊飯器にも皿洗い機にもあるのでしょうが、抜本的な変化とは言えないように思います。

 その点、非常に大きく世代交代してしまったと思うのが、私の仕事、音楽にも縁の深いオーディオやビジュアル、ステレオやテレビであるように思います。

 1970年代には今日の薄型ビジョンはあまり想像されていなかったように思います。

 システムコンポーネントは重厚長大、中学に入って隔週で買うようになった「FMファン」には毎週、LPレコードのプレーヤーのターンテーブルや、ピックアップの「カートリッジ」に関するマニアックな連載が載っていました。

 スクラッチ・ミュージックなど想像だにされない、いま思えば牧歌的な高度成長期の風景です。

 そんななかで、オーディオについては今日に至るもう1つの「風景の変化」を指摘せねばなりません。1979年7月、ソニー「ウォークマン」の発売による、オーディオのモバイル化です。

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スマート爺さんとモバイル婆さん
情報化世代の生理的加齢劣化市場

 1979年7月。これをよく記憶しているのは、私が中学3年生で、1学期が終わって夏休みに入り、いろいろな変化があったからです。

 中学と高校がつながった学校で、高2の先輩たちが受験のために引退し、私が所属していた「地学部」には高1がおらず、中学3年でいきなりクラブの経営責任を持つことになった。

 その夏休みに「ウォークマン」が発売され、社会現象と言うべき変化が起きました。それは今日まで続いているわけです。

 トランジスタ・ラジオの普及によって、すでに一部のオーディオメディアの持ち運びは可能になっていました。

 しかし、レコードにせよカセットテープにせよ、録音媒体の再生、音楽を聴くという意味ではモーターが回転して媒体を再生せねばならず「ワウ・フラッター」といういまや完全に死語であろう問題などもあって、これを持ち歩くといった発想は1977-78年頃の日本社会にはなかったように思います。

 マイクロプロセッサが可能にした家電の微細制御で、最も革命的なことの1つは、移動体が様々な揺れなどを印加しても記録媒体が正確に再生されるという、目立たないようで決定的な技術ではないかと思います。

 まあ、ともあれお化け商品「ウォークマン」については多くが語られていると思いますので、ここでは一切触れず、その波及効果、特にネガティブな面に注目してみたいと思います。

 1979年、私たちの学年は中学3年で15歳の年齢でしたが、このとき10歳だった世代、20歳、30歳・・・と世代を区切り、その後の加齢に伴う聴力の変化などを追ってみると、まず間違いなく、ある傾向が指摘できます。

 イヤホンの濫用による聴力の劣化、難聴進行のリスクを指摘しないわけにはいきません。

 パチンコ店員の職業病として古くから指摘されている難聴は、過剰な音圧、特に断続するアタックのインパルスが大きな原因の1つとされています。

 内耳末梢内、蝸牛管基底膜上に分布する有毛細胞(Hair cells)についている神経伝達物質の出入りを制御するマイクロチューブが切れるなど、聴覚器が継続的に物理的破損を被ることによって音が聞こえにくくなるのです。

 有毛細胞のパーツには再生能力がありますが。加齢にともなってだんだん弱まります。あるいは器質的な変形などもあるようで、ともかく「年を取れば耳が遠くなる」は昔から知られた、人間の典型的な老化現象の1つです。

 21世紀の高齢化社会は、こうした加齢現象が、十分に情報化が進んだ国民人口、社会にもたらされる点に、別のリスクを指摘しなければなりません。

 かつては、補聴器をつけるような年齢になると、あまり電話などは使わなくなったのかもしれません。

 いつまで経っても跡を絶たない「オレオレ詐欺」が高齢者被害者を襲い続けるのは、電話音声のローファイに加え、高齢者の聴覚能力自体も劣化しており、個人の電話音声による識別能が低下していることに注意しておく必要があるでしょう。

 さて、「AIスピーカー」あるいは「ARグラス」でも何でもいいのですが、今後確実に人口割合が増え、市場の過半を占めるであろう「高齢化パーソナル情報機器ユーザー」を念頭に商品設計されているかと問われれば、ほとんど何も考えてないと言っていい。

 市場がスマート爺さんやモバイル婆さんで占められるのに、全く対応できていない。

 私の研究室はこの種の話題に長年コミットしているので、安心して保証できますが、例えば高性能のARグラスなど、軍事目的で野戦展開などで20歳前後の若者が使う場合にはSF映画のようなこともあると思いますが、世間の大半はそんなユーティリティを必要とはしないでしょう。

 音声での命令は技術展示としては面白いものの、人間工学的に考えれば明らかにより長い時間を要し、また音で情報が駄々漏れしますから、ビジネスの普通の前線で職業人が用いるのは、50年経ってもやはり駿速の手動入力が主流と思います。タイプライター・キーボードは絶滅していないでしょう。

 「すり合わせマッチョ型」と言うべき、省思考型のイノベーションを多く見るわけですが、苦し紛れの新製品で、大半は市場で淘汰されて終わります。

 そうではない、より本質的な「創造的破壊」を企図する、若く野心的な頭脳が自由に活躍できる場を創っていく必要があると思うのです。

(つづく)

筆者:伊東 乾