文/矢島裕紀彦
今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「中学生が読んでも文意は辿れるものでなくてはならぬと思います。詩精神それ自身は難解なものであっても文脈は平明でなくてはならぬと存じます」
--伊東静雄

その日、伊東静雄の姿は、東京・新宿の酒亭にあった。取り囲むのは、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治、中原中也、立原道造、檀一雄、太宰治といった面々。いまそこで、伊東静雄の処女詩集『わがひとに与ふる哀歌』の出版記念の小宴が催されていたのである。昭和10年(1935)11月23日のことだった。

伊東は明治39年(1906)長崎・諫早の生まれ。佐賀高校を経て京都帝国大学国文科を卒業し、大阪の中学校の教師をつとめていた。伊東にとって、この小宴への出席が初めての上京であった。

帰阪した静雄は、詩友・富士正晴のもとを訪ね、こんな話をした。東京の連中は薄情で、会がはねたあと誘ってもくれず、唯一、初対面の中原中也が飲みに連れていってくれた。が、こうした場合は上京してきた者が奢るのが習わしだとして勘定を払わされた--。

話の中身とは裏腹に、静雄の口ぶりはいかにも愉しげで、のちのちまで文壇史上に語り継がれることになる逸話には、ふれることがなかった。

実は宴の最中に、萩原朔太郎と三好達治の間に激しい論争があったのである。

萩原朔太郎は、伊東を「真の本質的な抒情詩人」として絶賛した。その詩にはじめて出会ったとき、そこに、失われつつある詩の霊魂ともいうべき抒情性が脈打っていると萩原は感じていた。「日本に尚一人の詩人があることを知り、胸の躍るやうな強い悦びと希望をおぼえた」と綴ったほどであった。これに対し、三好達治は、伊東の詩は語彙や語法において「強行ゴリ押し」の難解さがあり、内容的にも晦渋さが目立ち過ぎると見ていたのだった。

伊東の胸の底に、三好の批評は萩原の称讃とともにしみ入っていたのだろう。青年詩人に難解さを強いた「意識の暗黒部との必死の格闘」は、年を経て静穏な思索へ移り、表現も透徹し平明に還っていく。不惑を超えて桑原武夫宛に出した書簡には、「私は最近の自分の作を、初期のものの〈解説〉といふ風に考へてをります」とも綴っている。
掲出のことばは、詩人志望の少女・田中光子にあてた手紙の中の一節だが、ここでも表現の平明を説いている。

晩年の伊東は、結核で長い入院生活が続いた。そんな病人を励まそうと、『伊東静雄詩集』の上梓が計画された。萩原朔太郎すでに亡く、編集には桑原武夫と富士正晴が当たる。蔭に回って三好達治も大いに尽力したのだが、刊行なったのは詩人の死から4か月のちだった。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

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