京城府は、朝鮮王朝の漢城府に引き継いで置かれた日本統治時代の行政区域、現在のソウル特別市に当たる。写真は筆者提供。

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京城府(けいじょうふ)は、朝鮮王朝の漢城府(ハンソンブ)に引き継いで置かれた日本統治時代の行政区域、現在のソウル特別市に当たる。1394年11月26日、朝鮮王朝の太祖・李成桂(イ・ソンゲ)は開城(ケソン)から漢陽(ハニャン)へ遷都、1395(太祖4)年6月6日に漢陽府を改め漢城府とし、以来およそ500年にわたって首都となった。1910(明治43)年の日韓併合後、朝鮮総督府地方官官制に基づき「京城府」に改称された。朝鮮半島においての「府」は日本の「市」に相当する。よってしばしば誤って呼ばれるが、京城市という市は歴史上存在しない。また、「京城」は王城・皇城と同じ意味の漢語であって、朝鮮においては古くから漢城を指して使われた一般名詞の一つである。

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1945(昭和20)年8月15日の日本敗戦(光復)後もしばらくは「京城」の名称が使われた。連合軍軍政期の1946(昭和21)年10月18日、京畿道(キョンギド)の管轄から離れて「ソウル自由市」が設定され、大韓民国が独立した1948(昭和23)年には首都「ソウル特別市」が誕生、現在に至っている。「ソウル」は朝鮮固有語では「みやこ」を意味する。漢字表記(漢城・漢陽・京城・京都など)の変遷に関わらず、朝鮮民族はこの地を「ソウル」と呼んできた。朝鮮王朝時代までは朝鮮語で「京都」などと書いてソウルと読んでいたが、現代の韓国・朝鮮語では漢字の訓読が廃止されているためハングルのみで表記する。

京城の玄関は京城駅(写真1)であるが、明治のれんが造り駅舎は今も残っている。駅前にはかつて路面電車が走っていた。南大門から北の総督府に向かう太平通り、三越百貨店から鐘路にかけての南大門通り、三越と郵便局の間の繁華街である本町通り(現忠武路)、今のロッテ百貨店から右折すると黄金通り(現乙支路)、もう1本北の鐘路通りをそのまま東に行けば東大門に至る。地下鉄4号線になる退渓路は三越以東が昭和通りであったが、戦後になってソウル駅まで延長された。日本人観光客が宿泊・ショッピングしているロッテ百貨店やロッテホテルは、戦前は朝鮮殖産銀行(写真2)と半島ホテル(写真3)であった。そのロッテの対面には、京城電気(韓国電力公社)や三井物産京城支店などが今も残っている。ソウルの銀座とも言える明洞(ミョンドン)はかつて本町通りと言う一番の繁華街であったが、その地位は今も同じである。10年前は日本人観光客が多くみられたが、現在は中国人観光客も減ったとはいえ、多くみられる。

現在も使われている建物としては、三越百貨店(現新世界百貨店:写真4)、隣の朝鮮貯蓄銀行(現スタンダードチャタード銀行:写真5)、その対面の朝鮮銀行(現韓国銀行:写真6)、京城府庁(旧ソウル市庁・現ソウル図書館:写真7)、京城電気株式会社(現韓国電力公社)や明洞にある明治座(現明洞芸術劇場:写真8)などがある。10年前にあったスカラ座(旧若草座)はStay−Bホテルとなっている。東大門近くにあった鉄筋コンクリート水洗トイレ施設であった東大門尋常小学校(写真9)は、15年ほど前までは徳寿中学校としてあったが、商業街の発展に伴いなくなった。同じく、名門京城中学はもともとの慶煕宮に戻り、京城第一高女は整地されたが、中央にある大きな木は昔からあったであろうと想像できる。

貞洞(チョンドン)付近には多くの外国大使館があり、ロシア領事館跡もその一つである。当時から立派なれんが造りの京城郵便局は今、ツインビルのソウル中央郵便局となっている。ソウルプリンスホテルから南山小学校南山手にあった東本願寺は、現在ソウルボランティアセンターとなっているが、周囲に残る石柱に昔の寺院跡を感じる。南山の麓にソウルユースホステルがあるが、この北に日本公使舘(韓国統監官邸)があった。その玄関付近に日韓併合の裏工作を担当した会津藩出身の男爵・林権助男爵の銅像があったが、今では逆さに埋め込まれ、日韓の負の歴史をまざまざと感じる。同じく、憲兵隊本部は南山コル公園となり、その中にソウル南山国楽堂がある。併合前の1896年、南大門路の三越百貨店の場所に在京城日本領事館があったが、1930年に三越百貨店が建設された(図1は当時の京城地図)。

■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。