カイルル・アミンさん(48)。8月25日の早朝、アミンさんは近くの駐屯地から聞こえる銃声で目を覚ました。ロヒンギャの武装集団が仕掛けた攻撃に対する弾圧が始まったのだ。数時間後、軍はアミンさんの住むラカイン州の村を攻撃。「ヘリコプターから手りゅう弾を投げてきた」と店舗経営者のアミンさんは話す。逃げるしかなかった(2017年10月14日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News

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【AFP=時事】イスラム系少数民族ロヒンギャ(Rohingya)難民らの額に刻まれたしわは、無理やり作らされた笑顔よりも多くのことを物語っている。

 ミャンマー軍の弾圧を逃れ、100万人近くのロヒンギャが隣国バングラデシュの難民キャンプに押し寄せている。ここ2か月間だけでも60万人以上の難民が到着した。

 AFPのムニル・ザマン(Munir uz Zaman)写真記者が取材した11人のロヒンギャ難民を紹介する。

■カイルル・アミンさん(48)。8月25日の早朝、アミンさんは近くの駐屯地から聞こえる銃声で目を覚ました。ロヒンギャの武装集団が仕掛けた攻撃に対する弾圧が始まったのだ。数時間後、軍はアミンさんの住むラカイン州の村を攻撃。「ヘリコプターから手りゅう弾を投げてきた」と店舗経営者のアミンさんは話す。逃げるしかなかった。

■ゾーラ・ベグムさん(11)。ベグムさんとその家族は9月、故郷の村から10日間歩いてバングラデシュとの国境にたどり着いた。「国境に着いた時ホッとした。こちら側(バングラデシュ側)では大虐殺も人殺しもないから」。だが、コックスバザール周辺の難民キャンプにたくさんの人が詰め込まれているのを見て、ベグムさんは驚いてしまったという。 

■ソミラ・アクタルさん(25)。多くのロヒンギャにとって、ミャンマーとバングラデシュの国境を越えるのは命がけの戦いだ。国境では船が次々と沈み、大勢の人が命を落とした。地雷で死んだ人もいる。アクタルさんは9月、奇跡的に1.5ドル(約170円)でナフ川を渡る船に乗ることができた。「船頭は優しかった。お金を払えない人も乗せていた」

■カイルル・バシャールさん(65)。ラカイン州での差別と暴力から逃げてきた。ロヒンギャの多くが何世代にもわたってミャンマーで生活しているにもかかわらず、1982年に制定された国籍法でロヒンギャは無国籍化した。「私たちはベンガルから来たムスリムだから自分たちの国に戻るべきだ、と彼らは言うんだ」

■ソフラ・カトゥンさん(20)。8月にバングラデシュに到着してから、長い日中を1歳の息子の世話をして過ごしている。息子はテントの外で裸になって泥遊びをしている。息子のお腹は膨れているが、これは栄養失調の兆候としてキャンプ内で増えつつある症状だ。カトゥンさんは息子に母乳を与え続けているが、その理由を「ミルクが買えないから」だと話した。

■カフェイト・ウラさん(34)。ミャンマー西部ラカイン州で行われた早い時期の迫害から逃れ、バングラデシュのキャンプで26年間生活している。ウラさんはがんじがらめだと感じている。バングラデシュは、少なくも公式にはロヒンギャの就労を認めていない。そのためウラさんは非政府組織でボランティアをしている。「人生の半分が終わったが、まだ何も果たせていない」と怒りをあらわにした。

■ハシナ・アクタルさん(20)の子ども、モハメドちゃん。ミャンマーを逃れた6月、 アクタルさんのお腹はすでにかなり大きかった。バングラデシュ軍のテントで10月11日に出産した。モハメドちゃんは第2子。アクタルさんは子どもたちがこれから成長していく環境を心配している。一家が生活している小屋は廃材でできており、木の床は麻布で覆われている。

■ファゾル・アフメドさん(40〜50代)。バングラデシュへ逃れたのは2度目。1度目は1978年、そして2度目は今年8月。ここ2か月の間に国境を渡った60万人以上のロヒンギャの一人だ。1度目に逃れてきたとき、農家のアフメドさんとその家族は8か月間をバングラデシュで過ごし、帰還プログラムの下でミャンマーへ帰国した。だが、アフメドさんが住む村が破壊され、再びバングラデシュへ逃れて来た。

■ムジブル・ラーマンさん(10)。10歳であるにもかかわらず、れんがを運ぶ仕事をしていた。バングラデシュのクトゥパロン難民キャンプで初めて学校に通っている。複数の支援団体がキャンプで生活する数十万人もの子どもたちのために学校を設置した。子どもたちの多くには家族がいない。ラーマンさんは学校の初日は怖かったが、今は読み書きを習うことに「楽しさ」を感じている。

■モハメド・ユスフさん(18)。9年間クトゥパロン難民キャンプで生活しており、新たに押し寄せる難民による影響を心配している。「生活はもっと困難になる」「難民がもっと少なかった時はバングラデシュ当局はもっと柔軟だった。外出が許可され、働くことができた。今はバリケードがある」

■ハキミ・ザマルさん(80)。難民キャンプで配給の列に並ぶ必要はない。娘が届けてくれるのだ。ザマルさんが暮らしていたラカイン州マウンドーの村からバングラデシュまで、道のりの大半を親戚がザマルさんを運んだ。村は焼かれ、ザマルさんは身一つだ。「ミャンマーには戻りたくない。ここで死ぬつもりだ」
【翻訳編集】AFPBB News