女性の結婚率は、35歳を境に急激に下降する。

だがしかし。そんな悲観を抱くことは一切なく、麗しき独身人生を謳歌する女がいた。

恭子、35歳。

彼女が歩けば、男たちは羨望の眼差しで振り返り、女たちは嫉妬する。恭子は一体、何を考えているのか?

外資系ラグジュアリーブランドで働く恭子と、部下の周平は、一度は瑠璃子の罠にまんまとはまったものの、同僚・理奈の計らいもあってようやく距離を縮めた。

恭子はファッション業界の転職セミナーで講演をすることになるが、因縁の元彼も同じセミナーに来ていることを知った周平は、慌てて会場に向かっていた。




今、僕の目の前で、信じられないことが起こっている。

「恭子、俺と一緒に来ないか?」

“あの男”が、恭子さんの手首を掴んで引き寄せ、彼女の耳元でそう囁いた。

僕は呆然とその光景を見つめながら、つい1時間前の出来事を思い返していた-。



「ねえ、君。恭子がどこにいるか知らない?」

セミナー会場で突然背後から尋ねられ、僕が振り返ると、そこには見覚えのある男が立っていた。

「たしか、恭子の部下だよね?恭子、どこにいる?」

以前『37 ステーキハウス&バー』でばったり出くわした、恭子さんの前の会社の人事部の男だ。

「いや、僕は転職したんで、もう部下ではないんですが…」

僕が答えると、男は小さくため息をつき、礼を言う代わりに軽く手をあげて去っていった。

-あいつ…まだ何か企んでるのか…?

また先日のように、恭子さんに心無い発言をして攻撃するのではないか。そう思い始めたら気が気でなく、僕は彼の動きに目を光らせていた。

「ねえ、恭子の会社の人だよね?恭子どこにいる?」

「講演前なので控え室にいると思いますが…」

今度は恭子さんの同僚の人事スタッフを捕まえ、馴れ馴れしく尋ねている。なんだか必死で彼女の居場所を探しているようだ。

そして男は、控え室のある方向の通路に向かって早足で歩き出していった。僕は慌てて彼を追いかける。

「ちょっと!待ってください!」

通路で僕が呼び止めると、男はぴたりと足を止め、ゆっくりと振り返った。

「ああ、さっきの。急いでるんだけど、何か?」

まるで虫けらでも見るかのような視線を僕に投げかける。

「恭子さんに何の用ですか?今、彼女は講演前なので、また変なこと言うつもりなら、やめてもらえますか?」

僕は彼を睨みつけた。


周平は、恭子を元彼から守れるのか?


男は怪訝な顔で僕に尋ねた。

「“恭子の元部下”くん、君は一体どこの誰だ?恭子の会社から、どこに転職したって?ポジションは?」

僕が現在の社名とポジションを堂々と告げると、彼は声をあげて笑い出したかと思ったらすぐに真顔に戻った。

「アシスタント・マネージャーごときが、一体何ができるっていうの?君の上司と僕は昔の会社の同期だし、御社の人事マネージャーともよく飲みに行く仲なんだよ。悪いけど、僕たちはステージが違うみたいだ。」

そしてくるりと背を向けたそのとき、会場側からMCの声が響き渡った。

「ただいまから、ファッション業界で活躍する方々による講演をスタートいたします」




僕が慌てて会場に駆け込むと、ちょうど恭子さんが壇上でマイクを片手に話し始めたところだった。

「私は、現在弊社のCRM&マーケティングチームでマネージャーを務めております。私の仕事内容は…」

近くで見るには眩しすぎるくらいのオーラを放つ恭子さんは、こうした広い会場の大きなステージが本当によく似合う。

講演者として彼女を選んだ人事のスタッフはさすが見る目があるなと、僕は満足して頷いた。

「私にとってこの仕事は、お客様の心を動かす仕事です。ラグジュアリーブランドは、単に高級品を扱っているというわけではなく、背後には必ず、伝統や歴史、職人たちの思いがあります。ラグジュアリーは1日にしてならずです」

続けて恭子さんは、僕たちの業界についてや会社の説明、具体的な業務内容とそのやり甲斐などを丁寧に説明した。

最後に、ひとりひとりに向けて語りかけるかのように、会場をびっしりと埋め尽くす聴衆をゆっくりと見回した。

「私も12年前、今の皆さんと同じ場所に立って、壇上を見上げていました」

そして、にっこりと微笑む。

「皆さんの前にはいつだって、無限の選択肢が溢れていて、その中からどれを選択するかは自分が決めることが出来るんです。あなたが幸せかどうかを決めるのは、他人じゃない。どうかあなた自身を信じて、そして自分で自分を幸せにしてあげてください」

会場中の誰もが拍手を送りながら、きらきら輝いた瞳で恭子さんを見つめている。彼らの姿はまるで、はじめて彼女に恋に落ちた日の僕のようだった。


恭子をそそのかす甘い誘惑


「ご清聴ありがとうございました」

私がマイクを置いてからもしばらく、大きな拍手は鳴り止まなかった。希望に満ち溢れた若者たちの美しい笑顔に見守られ、壇上から降りた。

「恭子、お疲れ様。ちょっと話があるんだけど、いいかな」

控え室で一息ついていると、私の前に現れたのは、かつて愛したあの人だった。


恭子に忍び寄る、元彼の誘惑




これまでさんざん嫌悪感をむき出しにしてきた彼が、ずいぶん謙虚な様子で話しかけてきたので、驚いて彼を見つめた。

「実は恭子に謝りたくて…君が仲良くしてた同僚から、聞いたんだ。君が僕を罠にはめて、マネージャーの座を奪い取ったって話が誤解だったってこと」

「もういいわよ、そんな昔のこと…」

私が呆れながら答えると、気まずそうにこちらを伺っていた彼は、ほっとしたように頭を掻いて笑った。

「話ってそれだけ?なら私、もう行くね。会社に戻らないと」

するとその場を立ち去ろうとした私の手首を、彼が咄嗟に掴んだ。

「待てよ」

そして強い力で、私の身体を自分の方にぐっと引き寄せ、耳元で囁いた。

「俺、会社を立ち上げることにしたんだ。恭子、今の仕事なんて辞めて、俺と一緒に来ないか?」

私はその手を力一杯ふりほどいたが、彼はお構い無しで続ける。

「ラグジュアリー業界専門の人材会社を立ち上げるんだ。恭子にはその人脈を使って、営業を任せたいと思ってる。俺たちなら、今日のセミナーなんかよりずっと質の高いものができるって思わないか?」

思わず、言葉を失った。

確かに、以前からずっと、この業界のニーズに応えられるようなビジネスをやりたいと密かに思っていたのだ。そんな気持ちを見透かしたかのように、彼は熱く語った。

「君の力がどうしても必要なんだ。俺たち昔はよく、いつか起業しようって語り合ったじゃないか。俺なら君の夢を叶えられる。それに…」

彼は一呼吸おいて、私の瞳をじっと見つめる。

「前みたいに、キャリアで何かを諦める必要なんてない。君は好きなだけ成果を追い求めていいんだ。それでも僕は、もう二度と君を手放したりしないよ。女としても幸せにしてみせる」

これはプロポーズなのだろうか。予想もしていなかった言葉に驚いて立ち尽くしていたそのとき、後方から声が聞こえた。

「恭子さん。こんなところにいたんですか」

そう言って私の肩に手を回したのは、周平君だ。

「恭子さん、行きましょう」

元彼のことなんて目にも入らないかのように、周平君は部屋から出ようとする。すかさず元彼が、苛立ちを帯びた声で呼び止めた。

「おい。さっきからお前一体、何様なんだ?」

「僕ですか?僕は…」

周平君は振り返り、きっぱり言いはなった。

「僕は、恭子さんの彼氏です」

元彼は呆気にとられて口をぽかんと開けている。周平君は私の背中にそっと手を添えて、出口へと促した。

その横顔を見上げながら、私は強く思った。

起業への甘い誘惑も、大人びたプロポーズもいらない。ただ私が欲しいのは、私が迷った時にそっと背中を押してくれる、この笑顔だけだ。

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次週、最終回。麗しの35歳、大ピンチ!恭子の前に立ちはだかる最強の敵。