短期連載〜消えたハリマヤシューズを探して(2)

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 埼玉県の老舗足袋会社が、大手スポーツシューズメーカーに対抗してランニングシューズ開発に挑む──。池井戸潤のベストセラー小説が原作のテレビドラマ『陸王』が話題となっているが、今から約100年前にも、ひとりの足袋職人が、まだ黎明期の日本マラソン界にあって競技用の足袋を開発した実話があった。

 東京・大塚に足袋店「ハリマヤ」を開いた足袋職人・黒坂辛作(くろさか しんさく)のもとに、近所にある東京高等師範学校(現在の筑波大学)の学生・金栗四三(かなぐり しそう)から寄せられた「もっと履きよくて長持ちする足袋を工夫してくれんか」との要望。持ち前の脚力と持久力を発揮して、ストックホルムオリンピックのマラソン代表選考会に優勝した金栗は、レースで使う足袋を改良する必要性を感じていたのだ。


ストックホルム五輪で金栗四三が履いた記念すべきマラソン足袋

 まだスポーツシューズという存在などない時代である。辛作と金栗のふたりは研究を重ねた末、厚布を重ね縫いした丈夫な足袋を仕立てた。1912年(明治45年/大正元年)、この特製マラソン足袋を持って、金栗は日本初のオリンピック代表選手としてストックホルムに乗り込んだ……。


■死者が出るほど過酷だった五輪のマラソン■

 引きも切らず新橋駅に押し寄せる群衆から「万歳三唱」で見送られた金栗四三らオリンピック代表団は、鉄路で敦賀を目指し、そこから航路でウラジオストクへと渡った。さらにシベリア鉄道でモスクワ入りし、サンクトペテルブルクの港からまた汽船に乗り継いで、実に17日間をかけてスウェーデンの首都ストックホルムに辿り着いた。

 現在では想像もつかないほどの長旅に加えて、ストックホルムは白夜の季節で眠りが浅く、初めて体験する現地の食事も口に合わない。金栗は試合当日までに思うように疲れがとれずにいた。

 しかもマラソン競技当日は、北欧には珍しく気温35度を超す猛暑日だった。レースは、参加者68名中、完走者は半分の34名。ひとりが日射病で命を落とすほどの過酷なものとなった。

 金栗はスタートで出遅れたものの、折り返し地点を過ぎて17番手まで順位を上げた。しかし、辛作に厚手の3枚布で補強してもらった布底は、日本の道より硬い石畳からの衝撃を吸収しきれず、そこから追い上げようにも、もう膝が割れるように痛くて前に進まない。

 26kmを過ぎたあたりで金栗は猛烈な疲労感を覚え、意識が朦朧(もうろう)となり、知らず知らずのうちにコースを逸(そ)れて林の中へ入っていってしまった。やがて民家の庭先に迷い込み、そのまま倒れ込んでしまう。おそらく日射病の症状もあったのだろう。金栗が再びコースに戻ることはなかった。


スタート直後のストックホルム五輪マラソン競技。金栗は後方にいると思われる。(TT News Agency/時事通信フォト)


 翌日、宿舎の部屋で前日の苦い記憶を思い返し、金栗は日誌に次のような激烈な文章で自らの敗北を綴(つづ)った。

「大敗後の朝を迎ふ。終生の遺憾のことで心うづく。余(よ)の一生の最も重大なる記念すべき日なりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まる日を待つのみ。人笑はば笑へ。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重任を全うすることあたはざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげむ」

 このとき金栗は世界との歴然とした差を痛感した。将来、日本が世界と伍して戦うにはスタミナとスピードを兼ね備えたランナーの育成が課題だ。

 そしてもうひとつ、「世界の舞台でも通用するマラソン足袋が必要だ」とも。帰国後、金栗は4年後のオリンピックを見据えて、辛作とともに足袋のさらなる改良にとりかかった。



■1200kmを走破したハリマヤのマラソン足袋■

 そのときまでの足袋は踝(くるぶし)の上まで包みこんでいたが、足首を動きやすくするために作りを浅くした。試作品を履いて金栗が走るのを、辛作が自転車で伴走して意見を聞き、何度も作り直した。

 ふたりは布底にも限界を感じていた。欧米の石畳の舗道は硬く、布底ではレース中に膝を痛めてしまう。辛作は大阪へ行って板ゴムを仕入れ、それを足袋の底型に合わせて切り抜き、縫い付けた。路面からの衝撃はやわらいだが、底が平面なので今度は雨の日にツルツルと滑った。ならばと、金栗がナイフでゴム底に凹凸をつけてみると、これがいい塩梅(あんばい)だった。辛作はまたゴム工場を駆け回って、凹凸のついたゴム型を作ってもらうのだった。


 こうして選手と職人が心をひとつにして、マラソン足袋に次々と改良を加えていった。

 1919年(大正8年)7月、金栗は下関〜東京間1200kmを20日間で走り抜く長距離走破を計画し、この改良したマラソン足袋で臨むことにした。新聞社が後援となり、長距離走破の様子が連日報道されたことから、沿道には大勢の見物客が群がった。当時、国民的英雄だった金栗が我が町を通過するとあって、人々はノボリを立てて応援したり、学生たちが一緒に走ったりと、日本でのマラソンの普及に大きく貢献したイベントとなった。

 ゴールの皇居前広場に到着した金栗は、辛作を見つけてこう伝えた。

「20日間を走り通すのに、この一足だけで十分だった」

 偉業を成し遂げた金栗が大勢の群衆から祝福を受けているとき、辛作は脱ぎ捨てられたそのマラソン足袋を手にとり、ひとり静かに涙したという。

 さらに辛作は、足袋のコハゼをやめる決心をする。コハゼとは踵(かかと)を締めつける留め具で、足袋を足にフィットさせる重要な機能だ。これを現代のシューズのように足の甲をヒモで縛る形に変える大きな決断だった。

「決して職人気質を出すな。名人になってもいけない」

 辛作がふだんから自分に言い聞かせている言葉だ。マラソンランナーのため、いや金栗のためであれば、辛作は足袋職人の矜持(きょうじ)も捨てる覚悟だった。

 そして辛作は、凹凸のゴム底と、足の甲をヒモで縛るこのマラソン足袋を「金栗足袋」と命名して登録商標をとり、一般にも売り出すと、これが飛ぶように売れた。商売を度外視して金栗のために費やした辛作の努力が、期せずして報われたことになる。

 戦後しばらくたっても、運動会に行けば必ず見かけたほどのロングセラーとなった「金栗足袋」。驚くべきことに、このマラソン足袋はストックホルム以降のオリンピックの舞台でも、とてつもない成果を挙げていく……。

(つづく)

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