妊婦の"マタ旅"に潜む"母子死亡"のリスク

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妊娠中に旅行をする「マタ旅」が静かなブームになっている。旅行会社などは「今しか行けない」「夫婦水いらずで」などと謳うが、そこには大きなリスクが潜んでいる。30年間、産科救急に携わってきた小川博康医師は「危険な状態で運ばれてくる妊婦が増えている」と警鐘を鳴らす――。

■「お腹が痛い」を我慢した結果……

私は産婦人科の専門医です。その中で妊婦が危険な状況に陥ったときに処置する「産科救急」の対応にも携わってきました。最近、妊婦が危険な状態で運ばれてくることが多くなっていることに危機感を覚えています。

当事者となるご夫婦は、世の中で「当たり前」と見なされていることを行ってきただけです。それでも、ある日突然、地獄に落とされたような悲しみに直面している現実があります。

先日、知り合いの医師からこのようなケースを聞きました。

妊娠9カ月になる妊婦さんが、家族旅行で行った温泉地から緊急搬送されてきたそうです。奥さんは旅行初日に「お腹が痛い」という自覚があったのですが、我慢をしてしまって時間がたち、いよいよ腹痛がひどくなってから病院に駆け込んだということでした。

この妊婦さんは「常位胎盤早期剥離」という、胎盤が子宮壁から剥がれ落ちてしまう状態になっており、医師の必死の治療もむなしく、母体死亡、胎児死亡という悲しい結末となりました。

旦那さんは「昨日まであんなに元気だったのに。ごく普通の妊娠でこんな結果になるなんで信じられない」と対応した医師を責め立て、激しく取り乱されたそうです。

国内旅行でもこうしたリスクがあります。ところが、最近では妊娠中に海外へ足を延ばす人も少なくありません。海外旅行では航空機での長時間の移動や緊急時の意思疎通など、トラブルが起こる危険性はますます高くなります。

また日本のように医療保険制度がない海外で緊急受診した場合、1000万円を超えるような高額な医療費を請求される恐れもあります。

妊娠中の旅行は自己判断に任されています。このため医師も、妊婦にとって聞き心地のいい言葉をつかいがちです。しかし何かあったときのダメージはすべて妊婦と子どもに降りかかります。

私は以前から一貫して「妊娠中の旅行はお勧めしない」と妊婦さんたちに伝えています。その理由は、やはりリスクが高いからです。

■スピードが求められる産科救急の現場

この30年で産科医療の技術は目覚ましい進歩を遂げました。社会保障や健康保険制度が整備されたことにより、妊娠出産時の妊婦と赤ちゃん死亡率は劇的に低下しています。2015年の周産期死亡率は0.3%と過去最低を記録しています。

日本は“世界でもっとも安全に出産ができる国”といっても間違いではありません。しかし安全を追求し続ける社会の中で、お産は本来命がけで行うものだという認識が薄れてしまっています。

最近、危惧しているのは妊娠・出産の「ファッション化」の傾向です。さまざまなマタニティ商品が登場するのにあわせて、妊婦向け雑誌では読者参加型の親しみやすい記事が人気になっているようです。その内容は、まるでファッション誌のように楽しい情報が誌面をにぎわせています。

そうした記事の中には、つらい出産期間を少しでも快適に安心して乗り越えられるように、という良心的な意図から提供されているものもあります。私も出版社の求めに応じて、記事の執筆や監修をすることがあります。

ただし、医師である私からみると、その中には無責任な記事も目に付きます。妊娠中という「特別感」で財布のひもが緩くなっている妊婦や家族を相手に、活発な消費をうながそうとするあまり、妊娠・出産のリスクを高めることも紹介されているのです。そのひとつが妊娠中に旅行をする「マタニティ旅行」、いわゆる「マタ旅」です。

無責任な記事に後押しされ、妊婦さんが下した決断は、生死を分けるものになってしまう恐れがあります。

産科救急の現場は刻一刻と状況が変わる厳しい現場です。先日、当院に妊娠8カ月になる妊婦さんが夜間の時間帯に緊急搬送されてきました。

診察すると子宮口はほぼ全開で、赤ちゃんの足とへその緒が見える形でした。逆子で、また分娩の前にへその緒が見えてしまうのは、赤ちゃんに酸素が届かなくなってしまう状態で、状況が長引けば胎児死亡に陥る危険な状態です。

私は産科・新生児科の医師と共に帝王切開の準備に入りました。しかしその準備中に手術室で破水が起こり、方針を変更してへその緒を子宮に押し戻す一方、胎児の足から逆子を牽引し、産道から胎児を娩出することに成功しました。

もしこの妊婦さんが、救急車で分娩になったり、最初に一般の病院の救急に運ばれていたりしたら、赤ちゃんは助からなかったと思います。産科の救急はその場での素早い診断と適切な処置が求められる領域なのですが、そういった対応ができる産科医は少ないため、緊急時にそのような医師に処置してもらえるとは言い切れないのです。

産科救急に運ばれるような危機的状況を回避することができるか、できるところは自己防衛をしていくことが非常に重要になってきます。

■「自己管理をして命がけで産みます」

47歳で初産をした女性の例を説明しましょう。

アーティストとして活動してきたKさんは、思いがけない妊娠に気づいて当院に来られたのは46歳という高齢でした。40代の後半にもなれば、分娩そのもののリスクが大きく、高血圧などの付随するリスクも多くなり、文字通りお産が「命がけ」になる確率が高いといえます。

この事実を踏まえ、Kさんを目の前に私は「必ずしも優しい言葉はかけられません。リスクを正しく理解して、厳しい節制をしていく必要がありますが、できますか?」と尋ねると、Kさんは「わかりました。きちんと自己管理をして命がけで産みます」と、覚悟を決められました。

それからKさんは食事記録をつけて体重や塩分をコントロールし、積極的に食事指導を受けておられました。血圧のチェックも毎日欠かさず行っていました。Kさんは健診のたびに「次の健診までに何をすればいいですか?」と話を聞いてくれました。

40代女性の高齢出産ではリスクを考え、帝王切開で計画出産するケースが大半でしたので、Kさんにもそのように提案すると「分娩中に母子のどちらかの負担が大きくなったら、いつでも先生の判断で帝王切開や無痛分娩にしてください。でもこれでお産は最後だと思うので、陣痛が来るのを逃げないで自然に待ちます」と意思を伝えられました。

出産予定日の前日、陣痛が始まりました。子宮口が全開になったとき、赤ちゃんが下りだす瞬間を待ってKさんは5回ほどいきみ、元気な赤ちゃんが誕生しました。Kさんの妊娠も出産も、産科医として長年お産に携わってきた私も感動を覚えるほどの、実に見事な出産でした。

妊娠・出産とは、赤ちゃんを楽に子宮の内から外の世界へ導いてあげて、母体のダメージをいかに少なくするかということに尽きると思います。妊娠期間にどのような生活をおくればよいのかという判断基準はこの1点だと私は確信しています。妊婦さんや妊婦さんの周りの方はそれを忘れずに世間の風潮に流されずにしっかりと妊娠・出産と向き合ってほしいと思います。

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小川博康(おがわ・ひろやす)
日本産科婦人科学会専門医
小川クリニック院長。医学博士。1955年生まれ。1985年日本医科大学卒業。同大学産婦人科学教室、横浜赤十字病院副部長などを経て、現職。産婦人科専門医として多数の出産、産科救急の現場を指揮する。同クリニックは横浜市内の19床以下の施設で年間分娩数3年連続1位。著書に『「安全神話」の過信が招く妊娠・出産の"落とし穴"』(経営者新書)などがある。

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(日本産科婦人科学会専門医 小川 博康)