港区在住。遊びつくした男が、40歳で結婚を決意。

誰もが羨むリッチで幸せな結婚生活を送り、夫婦関係もうまくいっていたはず…だったのに。

4年後、妻が、何の前触れもなく、離婚を切り出す。それも、思いもよらぬ「離婚条件」を提示して。

世間を知り尽くして結婚した男と、世間を知らずに結婚してしまった女。

これは港区で実際に起こった、「立場逆転離婚」の物語。

夫・昌宏(まさひろ)に突然離婚を切り出した妻・利奈(りな)。実は妻は、離婚を切り出すまでの2年間、夫の元恋人にずっと相談をしていた。




「やっぱりあの時のことが、どうしても許せない?」

藍子さんが、私に言った。

「あの時」という言葉に、胸が締め付けられる。その痛みに未だ自分の中の傷口がふさがっていない事に気が付く。もう随分時間も過ぎたというのに。

「あの時のこと」

私が、夫に泣いて訴えたのは、後にも先にも、あの時だけだった。

あの時、あの人が、何と言ったか。その一言一句、彼の表情を今もはっきりと思い出すことができる。

私は結婚してから、というよりずっと、早くお母さんになりたかった。子どもが欲しいというのは、人生において特に大きな目標を持てなかった私の、たった1つの大切な夢だった。

25歳で結婚したとき、周囲もそして私もすぐに子どもに恵まれると思っていたのに、なかなか妊娠はしなかった。特に焦ってはいなかったけれど、結婚して2年が経とうとしていた時、妊娠が分かった。

あの時の喜びを何と表現すればいいか、時がたった今も、未だに思いつかない。

すぐに夫に連絡しようとも思ったけれど、やっぱり顔を見て伝えたくて「今日は何時に帰ってきますか?」とLINEを入れた。しばらく既読にはならず、返信が来たのは1時間後。

「23時くらい。先に寝てて」

遅くなるんだな、とがっかりしたけど「話したいことがあるから起きて待ってます」と返信した。それに返事はなかったけれど、何度も時計を見ながら、そわそわして帰りを待った。そして。

玄関のキー解除の音が聞こえたとき、私は思わず走りだしていた。そして、まだ靴を脱いでいた彼に飛びつき言った。

「赤ちゃんができたの」

飛びついてから、こんなことをするのは初めてだと気が付いて急に恥ずかしくなったけれど、もう後には引けず抱きついたまま彼の肩に顔を埋め、彼の言葉を待った。すると…


妊娠を告げた時の夫の思わぬ反応に困惑する妻




「良かったね。」

思っていたよりずっと落ち着いたトーンの返事に。私が顔を上げると彼は抱き上げていた私を床に降ろし、私たちは正面から見つめ合う形になった。そして、私の腰に手を回したまま彼は言った。

「僕も嬉しい。」

彼はたしかに笑顔だったけれど、喜びが爆発した私との温度差は明らかだった。一緒に大喜びしてもらえると信じていた私は、不安になりもう一度聞いた。

「本当に嬉しい?」

「もちろん嬉しいよ。利奈が嬉しそうで、嬉しい。」

彼は私の頭や頬を撫でながら、優しい声でそう言った。

「ごめん、ただ今日はちょっと、ヘビーなミーティングが続いたから。明日、起きてからゆっくり話したい。いいかな。」

私の腰から手を離しながらそう言った彼。私がうなずくと、彼は寝室に向かった。そして、寝室のドアを開ける直前、私を振り返ったときの彼の顔は、たしかに疲れていた。

「次、病院に行くときは、一緒に行こう」

そう言って寝室に入った彼に、私は言い出せなかった。

私はもう飲めないけど2人で乾杯がしたくて、いつも記念日に彼が買ってくれるシャンパーニュを、初めて自分で買って冷やしていることを。



彼は言葉の通り、病院にも付き添ってくれたし父親になることを周囲にも伝えたようで、会社の人たちからお祝いが届く毎日が続いた。赤ちゃん色のグッズが、夫の好みのスタイリッシュな家具を追いやり、どんどん増えていく。

そんな家の中を見つめる度に、私は心の底から幸せな気持ちになった。

ただ、いつも夫婦のことを全て決める彼が、子どものことに関しては「利奈の好きなように」と言っていた。

そしてそれから1か月後。私は自然流産した。

病院で流産が告げられた時、ショックで茫然とする私のそばで、夫は淡々と医師の説明を聞いていた。

自然流産自体は、仕方がない。ただ何よりショックだったのは、医者によると私はもともと妊娠しにくい体質であり、今回の自然妊娠はあくまで例外的で、今後の妊娠については不妊治療が必要と思われる、と告げられたことだった。

夫に支えられながら病室を出た途端、私は泣き崩れた。

嗚咽をこらえることもできずに、大きな声を上げて泣いた。


反乱のはじまり。きっかけは妻が夫の本心に気が付いたこと


半ば夫に抱きかかえられながら、マンションに戻った。

玄関に着いても、私は涙を止めることができなかった。いつもは迎えに出てくるコンシェルジェも近寄ってくることは無く、夫がエレベーターのボタンを押した。

「少し眠る?」

夫の言葉にうなずく気力も無かったけれど、言われるがまま、寝室のベッドに運ばれた。到底眠れるとは思わなかったけれど、ベッドで泣き続ける間に意識を失っていた。




翌朝。酷い頭痛と共に目を覚ました。ベッドに夫はいなかった。リビングに出ていくと、すっかり身支度を済ませた夫が、コーヒーを飲んでいた。

「おはよう」

まるで何も無かったかのような、いつもの笑顔だった。このままでは、大切な何かが消えてしまう。焦った私は、朝日の差し込むリビングに似つかわしくないであろうテンションで言葉を発した。

「不妊治療を受けたいんです」

言った瞬間に、また涙がこぼれた。泣かないで言いたかったのに。

一度こぼれてしまうと止まらなかった。私はしゃくりあげながらも必死で言った。不妊治療にお金がかかることも分かっていたけれど、どうしても私は赤ちゃんが欲しくて、それは私のたった一つの夢と言えるものだったから。

夫は一瞬驚いた顔をしたような気もする。

きっと私が泣きわめくなど、初めてのことだったからだろう。しかしすぐに口角を引きあげると、夫は笑顔で言った。

「治療は、やめよう。子どもは、いなくてもいいじゃないか」

いつものように「子どもを諭すような」口調。そして続けた。

「これ以上利奈が傷つくのを見たくないんだ。」

私が…傷つく?

「利奈の笑顔を守りたいんだ。僕と出会った頃から変わらない笑顔をね。子どもがいなくても今までずっと幸せだったし、これからも…だろ?」

彼が言うと、まるで「私も」それを望んでいるように聞こえる。いや、今までずっとそう聞こえていたし、それを疑ったことはなかったけれど。

子どもがいなくても幸せなのは彼であって、私ではない。私は、必死で頑張りたいと訴えた。

「この話はもうやめよう。僕はもう出かけなきゃいけないけど、今日はもう寝ていなさい。」

笑顔で私の頭を撫でて立ち去る彼に、初めての感情が湧きあがった。

それはおそらく…怒り。

私のためだよ、と言わんばかりの言葉に、バカにされたように感じるのはなぜなのか。母になることが本当にたった一つだけの、私の大切な夢であることは彼にもずっと伝えてきたはず。

彼が家を出る電子音が聞こえた時、目の前が真っ赤に染まり立っていられなくなった。

ソファーに倒れこんだ時、花瓶も倒してしまったらしい。むせ返りそうなほど強烈なジャスミンの香りが室内に広がる。

藍子さんが言ったことが、突然フラッシュバックした。

「昌宏とあなたじゃ、いつか必ず辛くなると思うのよね」

「昌宏って自分ではフェミニストだと思ってるけど、実は全然そうじゃないから。だからあなたが辛くなる日がくるかもしれない。あなたがそれに気が付いてしまった時に、ね。」

そして、この日私は、藍子さんに初めて電話したのだ。



「利奈ちゃん?大丈夫」

藍子さんの声で、現実に戻る。心配そうにこちらを見つめる彼女を安心させたくて、私は言った。

「夫や…他の人から見たら、そんなことで、って呆れられるようなことかもしれませんよね」

笑った私に、藍子さんが首を小さく横に振る。

「子どものことは、確かにショックでしたけど、子どものことだけで、離婚を言い出したわけではありません。気がついちゃったんですよね。彼はたぶん…結婚するのは私じゃなくても良かったんだと。」

子どものことも一度で諦めたわけじゃない。

何度も訴えたけど彼はいつも「利奈のため」と言って聞く耳を持たなかった。

藍子さんと別れた後に、結婚相手に選ばれた私。

きっと彼は、藍子さんのように意見を言う女はもう必要無かったんだろう。藍子さんと出会って私は初めてそれに気が付いた。

でも私は…もう彼が望む、彼の思い通りの意志無き女ではいられない。

「自立を考えて離婚を言い出したのは、賭けでもあるんです。」

藍子さんの顔が、また悲しそうに歪む。

「もしも彼が、私の気持ちを少しでも探そうとしてくれたなら。私が必死で彼と対等になろうとしていたことに気が付いてくれたなら。もう一度、向き合いたいとは思っているんです。」

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