人妻が恋するのは、罪なのか。

裕福で安定した生活を手に入れ、良き夫に恵まれ、幸せな妻であるはずだった菜月。

結婚後に出会った彼は、運命の男か、それとも...?

人妻の菜月は、独身の達也と出会い、恋に堕ちてしまう。禁断の関係は夫にまで知られてしまうが、二人はめげずに愛を誓う。そして菜月はとうとう離婚を切り出すが、海外赴任を控えた達也の態度は曖昧になっていく。




―この時間が、ずっと続けばいいのにー

真夜中の薄暗い部屋のベッドの上で、菜月は達也の肌のぬくもりを噛みしめながら、ただひたすらにそんなことを願う。

家出をして彼の部屋に移ってから数日、二人は不自然なほど静かな日々を過ごしていた。

夫には一応「しばらく実家に戻る」と最初に伝えていたが、彼がそれを簡単に信じるはずはないし、実際に電話の一本でも入れられれば簡単にバレてしまう、浅はかな嘘だった。

一体これから、どんな道を進むのか。

考えれば考えるほど、自分の無謀さは大きな不安として心に重くのしかかり、菜月は目先の快楽に逃げたくなる。

「...どうしたの?眠れないの?」

寝返りを繰り返す菜月の気配を感じたのか、達也は薄目を開け、髪を優しく撫でてくれる。

「うん、目が覚めちゃったの」

一方の達也も、口喧嘩をして以来、離婚やこの先のことついて一度も口にしない。

そんな彼に不信感が募りつつもあったが、未来が不安定なほど、身体の底から執着にも似た愛しさが込み上げた。

「ぐっすり眠れるように、してあげようか?」

このとき二人は、“現実”という魔物がヒタヒタと背後に忍び寄るのを、お互い見て見ぬフリをしていたのかもしれない。

そして、言葉にできない不安と後ろめたさの帳尻を合わせるために、ただ抱き合うしか術がなかった。


夫と再び対峙する菜月。その意外な反応は...?


忘れていた、新婚時代の妻の想い


数日後、菜月は夫の宗一と再び対峙すべく、指定されたパレスホテル東京の『プリヴェ』にやってきた。美加を通して、彼の方から呼び出されたのだ。

「実家はどう?お義父さんとお義母さんは元気?」

妻が大人しく実家に篭っているなんて思うはずはないのに、宗一はさも平然と言った。

「......」

感情を乱すことなく、常にひっそりと凪いでいて、良く言えば温厚だが、しかし実際は、自分のことしか考えていないのが宗一だった。

惚れた腫れた、他人への嫉妬や羨望という俗っぽい世界からも程遠く、いつも哲学者のように冷静に、嘆きもせず、怒りもせず、問題が起きればそれを明確に論理づけようと物事を飽かずに客観視する。

そんな夫を“大人の男”として惚れこみ、子犬のように甘えていたのは、結婚して1年ほどだったと思う。

宗一に話題を提供し、問いかけ、膝を揺すり、ねぇねぇ私の話を聞いて。こんなに楽しいことがあったの、悲しいことがあったの、こっちを向いてと、所帯染みた夫婦にならぬよう、必死に振る舞っていた頃が懐かしい。

しかしそんな努力も虚しく、夫は薄く微笑みながらも医学書から目を離すことはほとんどなく、やはり基本的に自分以外に興味がないように思えた。

そして菜月自身、そんな彼に同化するように落ち着きを身につけていったのだ。

「菜月。君、本当に別れたいの?」

しかし数日ぶりに会う夫は、これまでと少し様子が違った。

女に振り回された男の疲れとでも言うのか、いつもの無感情に乾いた瞳に、ほんの少し寂しさが滲んでいるように見える。

普段は酒もほとんど飲まない宗一が、今日はウィスキーのロックを啜っていた。




「相手の彼も、本気なんだね?」

夫の静かな問いに、うまく答えることができない。

菜月は、連日疲れた顔で遅くに帰宅する達也を思った。海外赴任の日程が刻一刻と迫る中、若い彼にも様々な葛藤やプレッシャーがあるのだろう。この先のことなど、全く話していない。

人目を忍んで密会を繰り返していた頃とは違い、“現実”を前にした二人の間にはピリピリと張り詰めた空気が漂い始めている。

正直に言えば菜月自身、一人達也の帰りを待ちながら、一体自分は何をしているのかとふと我に返り、あまりに絶望的な状況に愕然とすることもあった。

「...やっぱり、上手くなんて行かないだろう。かわいそうに。菜月、家に戻りなさい」

妻の頭の中を見透かすように、宗一は溜息まじりに言った。

「君は分からないのかもしれないけど、僕はそれなりの決意を持って結婚してるんだよ。だから多少のトラブルには対応する。でも、それも今週までだよ。それ以上は待たない」

「どうして、そこまで...?」

「君は最近、どう見ても少し正気を失ってるよ。言い方は悪いけど、流行り風邪みたいなものだろう」

夫は目を合わさずに、小さく、しかしはっきりと言った。

医師である夫の、まさに患者を諭すような論理的な物言い。それが今までのような警告でなく、救いの言葉に聞こえたのは、菜月にとって初めてだった。


夫の言葉に耳を傾けはじめた菜月。そして気づいた事実とは...?


「あの、一つ聞いてもいいですか...」

ふと疑念を思い出して菜月が問うと、夫は「どうぞ」と促す。

「あの写真って、誰かを雇って撮らせたの?本当に、訴えなんかを起こす気なの...?」

「...写真?僕は知らないよ。ポストに入ってたって言っただろう。」

宗一は意外にも、気の抜けた表情を見せる。嘘をついているようには見えなかった。

-じゃあ、あれは誰が...?

一人戸惑う菜月をよそに、彼はサッと会計を済ませる。

「あの時は僕も多少感情的になってたけど、そんな準備は少なくとも今は何もしてないよ。じゃあ話は終わったから、もう帰るよ。お義父さんとお義母さんに、よろしく伝えて」

先に立ち去ってしまった宗一は、最後まで寛容だった。

実家帰省という設定を崩さず、あくまで妻を泳がせるスタンスを貫く姿は見事で、菜月は複雑な思いで夫の後ろ姿を見送った。


気づいたときには、失っていた関係


「達也くん、話があるの」

達也の帰宅は、深夜2時近かった。

彼は送別会だの壮行会だのと言っていたし、サラリーマンは飲みも仕事の一部という話ももちろん聞いたことはあるから、多忙なのは事実だろう。

だがそれにしても、時間もほとんど残されていないこの状況で、酒の匂いを漂わせ顔を赤らめた達也を見ると、菜月はジリジリと胸が焼けるような思いがした。




「ねぇ...達也くん、もうすぐロンドンへ行くんでしょ...?」

「...うーん、まだ日にちは決まってないよ。ちょっと俺今日酔ってるし、疲れてるからまた明日...」

「日程の問題じゃないし、毎日酔ってるじゃない...!」

虚ろな目で答える彼に、菜月はついに苛立ちを隠せなくなる。

「.........」

気まずい沈黙が、二人の間に流れた。

達也はソファにもたれながら、じっと視線を落とし、微動だにしない。

その神妙な顔つきは、何かひどく思いつめているようにも、悲しんでいるようにも、反省しているようにも見える。

しかしそれは、責任を逃れ、不利な決定打を女に委ねようとする男の顔だ。菜月は哀しくも、達也の気持ちが手に取るように分かる。

だからと言って、菜月も達也を責めることはできない。自分だって、逃げ道は残したままなのだ。

-結局、達也くんも私も、自分が一番可愛いんだわ...。

今さらながらにそんなことを理解したとき、菜月はある事実に気づいた。自分は達也との関係を、すでに失いかけている。

「達也くん、私、家に戻るね...」

遅かれ早かれ、口火を切るのは菜月の役目だったのだろう。

そもそも初めから、選択肢はこの一つしかなかったのかもしれない。

菜月はやや自嘲気味に、これまで浸かっていた世界が、するすると潮が引くように消えていくのを感じた。

▶最終回:11月4日 土曜更新予定
達也に別れを告げた菜月。禁忌を侵した人妻の、その結末は...?!