『ドライチ プロ野球人生「選択の明暗」』(著:田崎健太/カンゼン刊)

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プロ野球ドラフト会議の季節がやってきた。今年は早稲田実業学校・清宮幸太郎選手や、広陵高校・中村奨成選手のドラフト1位指名が予想されている。だが、何位で入団しようが、重要なのはプロ入り後にどれだけ成長できるかだ。最終回は、かつて「甲子園の申し子」と呼ばれ、ヤクルトスワローズに進んだ荒木大輔選手。ノンフィクション作家・田崎健太氏が「プロの壁」について聞いた――。(全3回)

※以下は『ドライチ ドラフト1位の肖像』(カンゼン刊)から抜粋し、再構成したものです。

■甲子園での人気は、経営陣にとって魅力的

野球は数字の競技である。

打率、防御率、あるいはOPS(On-base plus slugging)といった数字で、全てではないにしても選手の能力を測ることができる。こういった数字を弾き出す上で必要なのは、しっかりとした母集団である。野球の場合であれば、ある一定以上の水準の試合をたくさんこなすことである。

その意味でアメリカは極めて合理的な選抜方法をとっている。アメリカではドラフトで何位に指名されたかということは意味がない。彼らはマイナーリーグに出場し、試合の中でふるいに掛けられるからだ。能力のある選手は上のカテゴリーに引っ張り上げられ、価値がないと判断された選手は消え去っていく。

一方、厳密な意味で日本にマイナーリーグは存在しない。二軍には、少なくない一軍の選手が調整という目的で降りてくる。そのため、実績のない若手選手の起用は限られるのだ。そして登録選手数が限られているため、ドラフト会議での指名は大切である。どの選手を指名するか、については甲子園での実績が判断材料とされてきた

本来甲子園は、選手の能力を測るのに適しているとは言えない。10代の成長期はその能力を測るのに難しい。その上、短期間で行われるトーナメント制で試合数が少ない。たまたま調子のいい選手が出てきたり、あるいは巡り合わせに恵まれ、上位に進出することもある。プロ野球に携わったことのある人間ならばそんなことは承知の上だ。しかし、それでも甲子園がドラフト会議で重要視されるのには理由がある。

甲子園に出場し、広く名前が知られている選手の指名についてはスカウトの責任がぐっと軽くなる。一方、甲子園に出ていない選手を推すことはそのスカウトの眼力を問われ、その選手が結果を残せなければ立場を失う。

また、甲子園での人気は、興業の面から経営陣にとって魅力的である。

そのため甲子園で結果を残したことで、本人の意思とは関わりなく、ドラフト1位に押し上げられる選手も出てくる。

荒木大輔はその一人だった。彼は最初の“甲子園の申し子”とも言える存在である。

早稲田実業入学直後、東東京大会を勝ち抜き夏の甲子園に出場、準優勝に輝いている。ここから3年生夏まで出場可能な5度の甲子園に出場している。

しかし、本人たちの意識は違っていたと荒木は振り返る。

「(甲子園で)優勝候補って言われたこともありましたけど、みんな『なんで?』って感じでしたよ。自分たちを知っているというか、新聞とかで騒がれても『違うだろう』と冷静に見ていた」

個人的にも荒木は、同世代の飛び抜けた力のある選手とは差を感じていたという。

「例えば、斎藤雅樹と試合をしているんですよ。彼はとんでもないボールを投げていたんです。『こういう選手がプロに行くんだろう、俺たちじゃない』って話をしていたぐらい」

荒木と同じ年の斎藤は、82年のドラフトで読売ジャイアンツから1位指名される。埼玉県川口市立高校の斎藤は甲子園には出場していない。

荒木は甲子園でも、のちにプロ野球に入る選手と対戦している。

高校2年生の夏、3回戦で兵庫県代表、優勝候補と目されていた報徳学園と当たっている。報徳の投手で四番には、のちに近鉄バファローズからドラフト1位指名される金村義明がいた。

「ピッチャーとしてはそれほどでもなかったんですが、バッターとしてはスイングも速いし、すげぇなっていうのがありました」

早稲田実業は報徳に延長戦で敗れた。

また、3年生の夏は準々決勝で徳島県代表の池田高校と対戦した。

「畠山(準)はすごかった。当時はスピードガンはそれほど普及していなかった。後から彼に聞いたら148キロ出ていたって言うんです。昔のスピードガンって、測定方法のせいなのか、今よりも速度が出にくかった。今だったら感覚的に150を軽く超えている感じ。もうバケモノですよ」

畠山はこの年のドラフトで南海ホークスから1位指名されている。

この試合、荒木は7回まで投げて、被安打17、自責点9と散々な出来だった。2対14で高校生として最後の甲子園を終えた。甲子園での最高成績は、高校1年夏の準優勝だった。

■球団オーナーが直々に説得に乗り出す

高校卒業後、荒木は早稲田大学に進学してあくまでもアマチュアとして野球を続けるつもりだった。しかし、この甲子園のスターをプロ野球球団は放っておかなかった。

11月25日に行われたドラフト会議で、ヤクルトスワローズと読売ジャイアンツの2球団が荒木を指名。くじ引きの結果、スワローズが交渉権を獲得した。

「自分をそれだけ評価してくれたんだという嬉しさはありました。ただ、行く気はまったくない。本当にそのときは0パーセントでした。100パーセント大学に行きたかった。ぼくがプロに行ったとしても、通用しない。2〜3年で放り出されるだろうと思っていました」

ドラフト会議後、やはり荒木はプロ入りを拒否。スワローズのオーナー、松園尚巳が荒木の説得に乗り出した。

「オーナーが来るっていうから、立ち会わなきゃいけない。会ってみるともう全然すごいんですよ。ああ、トップになる人っていうのは全く違うんだなと思いました」

松園はスワローズ入りの話を一切しなかった。12歳で父親を亡くし、母親を助けながら育ってきたという自分の生い立ちを語ったという。

「無理にヤクルトに入れという話は一切なかった。ただ、野球が駄目になっても社会に出られるようにちゃんと教育するというような話をしてくださった。ぼくももともと野球は大好き。話を聞いているうちに、プロでやってみてもいいのかなと思い始めた。そして自分は行くものだという気になってきた」

入ってみると、やはり才能の差を感じたという。

スワローズでの最初のキャンプで、荒木はプロ野球選手の投球に圧倒された。

「杉浦(亨)さんとか大杉(勝男)さんの打球を見たら、これはもう大変なところに来たって思ってました。それでブルペンに入ったら、みんなビュンビュン投げている。コントールもすごくいい。ぼくはコントールには自信あったんですが、中に入ったら並」

荒木が目標としたのは3年で1軍のマウンドに上がるということだった。先輩投手たちのトレーニング法、投球を研究し、野球というものを考え抜いた。それが才能で劣る荒木の生き残りの策だった。

1年目の83年シーズンは15試合に登板し1勝0敗。2年目は22試合登板で0勝5敗。そして3年目の85年シーズン後半から先発ローテーションに入るようになった。翌86年、87年は開幕投手も任された。

しかし――。

88年5月、肘の腱が切れていたことが判明。アメリカで側副靱帯再建手術を受けている。手術は成功したが、復帰を急いだため症状が再発、2度目の手術を受けることになった。さらに椎間板ヘルニアの治療も重なり、復帰したのは約4年後の1992年9月だった。

このシーズンの終盤に2勝を上げた荒木は、チームを後押しする形となり、スワローズは14年ぶりのリーグ優勝を飾った。翌年はリーグ連覇、そして日本シリーズ初戦で先発勝利を挙げ、スワローズの日本一に貢献した。

これが彼の最後の輝きだった。

■「ドラフトは入り口に過ぎない」

95年シーズン終了後、横浜ベイスターズへ移籍。しかし5試合の登板に留まり、現役引退した。通算10年で39勝49敗2セーブという成績だった。

引退後、彼はアメリカに渡りクリーブランド・インディアンズ傘下、2Aのアクロン・エアロズにコーチ留学。その後、2004年に西武ライオンズ、2007年にスワローズのコーチに就任した。現在は現場からは離れて野球評論家として活動している。

指導者としての経験を踏まえた上で荒木は、プロでやっていける選手とそうでない選手の差をこう表現する。

「プロに入ってくる選手はみんな、ある程度の力を持っている。150キロ投げようが、言われたままやっている選手は駄目。残っているのは自分で工夫する選手なんです」

実戦を積み重ねて、自己を磨くことのできる選手のみが残る。ドラフトはその入り口に過ぎないと、元ドライチの荒木は言うのだ。

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田崎健太(たざき・けんた)
1968年3月13日、京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。スポーツを中心に人物ノンフィクションを手掛け、各メディアで幅広く活躍する。著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951−2015』(集英社インターナショナル)『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。

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(ノンフィクション作家 田崎 健太)