毎年ある時期になると、進路に関する学生からの相談が増えます。

 私が籍を置いている東京大学は、善くも悪しくも就職に関してはいくつか特徴を持っており、一定の限られた有効性しかないものの経験則に基づいてアドバイスをしています。

 「これはあくまで一教員としての私の経験、私の考えに過ぎないから、ほかの先生や大人にも意見を聞いて、相対化しながら参考にしてね」と伝えているものすが、少しそんなお話をしてみたいと思います。

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就職を考える若者に
なぜ元請けと下請けがあるのか?

 私は早くに父を失ったので、子供の頃、公共工事などで、元請け、2次請け、3次請け・・・といった下請けの制度がある理由がよく分からず、身近にもそういうことを教えてくれる大人もおらず、不思議でなりませんでした。

 33歳までフリーランスのミュージシャン、34歳から突然国立大学教官という公務員音楽教授職に生活が変化した私は、官費、公務に携わるようになって、初めてその理由を理解しました。

 国の会計制度は完全に納品が終わってから支払われるシステムになっているわけで、「公共事業立国」などと言われるように、日本のお金の大きな出元は国庫にほかなりません。

 そこから発注される大型プロジェクトは、一通りの納品が終わるまで肩代わりして実行する「大手」が受注し、一通りの納品が終わって初めて国から支払いが実行される。

 それまでの間を支えるのが元請けで、実際の仕事は2次請け以下に丸投げ、という構図は、国の会計(検査)のシステムに大きな背景がある。

 こんなことは学生時代、誰も教えてくれませんでした。

 もっとも私自身は、学生時代から音楽の仕事が回り始め、就職活動ということを一度も経験したことがなく、企業にも役所にも所属しようと思ったことのない、相当外れた人間ですので、意識の上ではマイノリティだと自覚しています。

 それでも、この種の話を15年来、学生にしてきて、学部1、2年生はもとより、大学院生であっても、クリアに認識している子は非常に少ない。

 そこで、やや乱暴かもしれませんが、普段学生たちに言うとおりの話をあえて記してみます。

 相談に来る学生の半分強は理系ですが(東大の学生定員は文系より理系の方が多いのです)、例えばどういう業種に進むかを迷っている学生には「あまり変わりがないかもしれないよ」などと言うことにしています。

 仮に大型の公共事業などを扱う場合、大手に入るというのは、最終的には仕事とお金の配分や進行管理の業務が大半で、職種が違っても出納とか管理とかのオフィスワークはあまり変わりがないかもしれない。

 本当に「もの作り」をしたいとすれば、必ずしも「大手」はそれに向いた現場ではないかもしれない。

 もちろん中央研究所などを擁する大手で、すばらしい基礎研究に従事するケースもありますが、例外的と言うべきで、必ずしも多くの現場で手を動かしてものを作っているわけではない。

 すでに昔のことで、問題が少ないと思いますのであえて記しますが、2000年代前半、私は東大内の「工学部教育プロジェクト室」というものの立ち上げを少しお手伝いしました。

 カリキュラムの「見える化」など知識構造化というプロジェクトの一部を分担したのですが・・・。

 そこで当時、問題になっていた現象の1つに「テレホン・エンジニア」という症例がありました。

 いわゆる「良い大学」を出て、大手に入ってきた新人の2〜3年目が使い物にならないというのです。

 現場で何かあると、すぐに電話。で、たたき上げで技術が分かっている人に尋ねる。そうしないと何も分からない。

 その背景の1つとして、当時は「過度のシミュレーション重視教育」も問題になっていました。

 建築分野で用いられる「AutoCAD」が典型的と言われましたが、例えば各種の見積もりなど、計算機の上で様々な操作ができる。

 結果として、そのレベルでの不祥事が、この頃いろいろ取り沙汰されました。不動産開発業者ヒューザーによる建築物の構造計算書偽造、鉄骨の耐震強度偽装は広く社会で問題とされ、ご記憶の方も多いと思います。

 このような不正は論外としても、「元請け的」な管理業務や経理・出納などを概観するうえで、1990年代以降急速に進んだ電算化、情報化、ネット化によって、新卒人材に「もの作り」よりもシミュレーションへの期待が高い面が確かにあったように思います。

 その結果、いわゆる「一流大学」の中にあまり望ましからざる意味で「元請の商社化」を促進するような人材育成の傾向が見られ、採用した側の企業から注文が寄せられるようになってしまった。

 一流大学の工学部を出て、ホープと期待して採用したけれど、入社数年、現場の現実がピンとこない新人が増えている。どういう教育をしているのか。云々、云々。

 やや簡略化して記していますが、何にせよ、工学部での人材育成に社会から様々な注文がつけられていたのは間違いなく、当時の小宮山宏・工学部長は「教育プロジェクト室」を開設、豊富な企業経験を持つ人材を採用して、改めて「タフなエンジニア」の育成に取り組んだのでした。

 そこで出てきたのが「ジェネラリスト教育不要論」だったのです。

ジェネラルな業務ができるスペシャリスト

 大手、例えばゼネコンのような場所で人材に求められる能力は、それこそ管理・運営の総合力で、いわゆる「ジェネラリスト」として器量のある若者を原則どこの会社も欲しがるかと思います。

 では「ジェネラリスト」総合職教育、とか、もっぱら「総合職としての人材育成というものがあり得るのか?」と問われたとき、当時の小宮山工学部長は、キッパリ、ノーと言われました。

 管理業務百般はオーケー、でも個別の専門は1つも持っていない(という病の症状として、元請の商社化とか、テレホン・エンジニア化といった個別の症例が見えていたのだと思います)ような人材は、いらない、と。

 たとえ小さな規模のものでもいいから、1つの専門について、1の1から始めて一通りのゴールまで、きちんと完遂するよう責任をもって取り組むなら、その過程で、進行の管理、経理出納といったことも不可避的に関わってきて、結果的に「総合職」の職務も理解できるようになる。

 インターンシップのようなものも、一部に深い穴を掘るというよりは、消化不良にならない程度に仕事のフロー全体が見えるような形で「現場の分かるタフな若者」を育てる方向で運用すべきだろう。

 そんな方向で議論が進み、2000年代前〜中半のテクノクラート人材育成が「上澄みジェネラリスト」に流れず、タフでしたたかな「もの作りのプロ」を育てる仕事に、30代後半だった私は一定期間従事していました。

 あれから10年ほどが経ちました。

 2015年に東京大学総長に就任した五神眞教授の基本的な人材育成の方針は、かつての小宮山さんの方向性をさらに徹底して推し進めるものであるように私には思われます。

 最初から、管理運営に特化した「ジェネラリストのプロ」というのは、実は絵に描いた餅に過ぎません。とりわけ精緻なプロセスを踏むもの作りの現場では、そんなことは実際には不可能です。

 これは私見に過ぎませんが、「元請けが偉い」というのは「偉いやつがエライんだ」あるいは「金持ち、権勢家が強いのだ」という、鼻持ちならないマッチョな発想であるように思われてなりません。

 封建時代や19世紀ならいざ知らず、ほとんど身分固定のような、空疎な2世、3世議員が大手を振って闊歩するような、こんな空洞化が許されてよいはずがありません。

 日本では「学歴社会」という言葉が良くない意味で用いられることが少なくありません。翻って欧米など先進各国では、能力を保証するキャリアが普通に評価されている。

 なぜ日本の「学歴」がいけないか、という1つの背景に、いまここで見たような「元請」や「総合職」の空疎が深く関わっているのではないか・・・。

 東大で教えるようになって18年、初期の学生たちがすでに40歳を過ぎるまでの時間の経過を踏まえ、このようなことを思わずにはいられないのです。

筆者:伊東 乾