東京には、いろいろな妻達がいる。

良き妻であり、賢い母でもある良妻賢母。

夫に愛される術を心得た、愛され妻。

そして、あまり公には語られることのない、悪妻ー。

これは、期せずして「悪妻」を娶ってしまった男の物語である。




世の中の男は、間違っているんだよ


世の中の男は、大変な勘違いをしている。

妻というのは従順で、貞淑で、倹約家なものだと。

だが藤田直樹は、今自分の横にいる妻・絵里子を眺めながらその考えに異を唱えたいと思っていたー。



藤田直樹は、極めて平凡なサラリーマンだった。

もっとも平凡というのはあくまで藤田の自称であって、周囲の人間は彼の忍耐強さと実直な仕事ぶりを高く評価していた。人によっては、彼を成功した企業人と呼ぶかもしれない。

大手町に本社を構える大手通信企業で順当に昇級し、今年で39歳になる。実家はなかなかの資産家で、既に祖父から譲り受けた不動産もいくつか所有していた。

藤田は、ほとんどの事柄にこだわりを持たない。

自宅のインテリアも、ただ目障りでなければ良いという考えだ。着るものにも無頓着で、不潔でなければ構わない。

だが、ただ2つ。

そんな藤田が特別なこだわりを見せるものがある。

一つは「食」だ。食べたものを写真に収め、SNSなどに記録したりするわけではないが、食には並々ならぬ関心を持っている。

ある程度は店のランクを気にするが、値段が高ければ良い、というわけではない。彼なりの指針を持ってして、東京中の店を開拓することを趣味としている。

そして、もう一つ。

このもう一つのこだわりが、この男の人生を狂わせてしまったと言っても過言ではなかった。


藤田のもう一つの異様なこだわりとは


「美しさ」至上主義の男


藤田は、幼い時からとにかく美しい女が好きだった。

彼にとっての、女性を”美人”たらしめるものは、性格の可憐さであるとか従順さ、匂い立つような色気といったものとは一切関係がない。

彼にとっての美とは、すなわち「造形の美」である。

顔立ち。肌の質、艶、手入れの具合。

目は大きすぎても小さすぎてもいけない。変に垂れすぎていても、猫のようにつり上がりすぎても気にくわない。

鼻筋に至っては完璧に好みの形があり、いくら美形でも特徴のありすぎる鼻は論外だ。

だが唇は、逆に主張がキツイくらいが良い。




と、こんな調子で女を値踏みするものだから当然、妻の絵里子と出会うまでは女性に真剣に向き合ってきたとは言えない。

藤田は好みの顔立ちの女を見つけては、ありとあらゆる手を使って、それは情熱的に口説いた。

花やアクセサリーを贈り、煩いほど彼女達の美しさを褒め称える。

そうすると、初めは藤田を煙たがっていた女達も、次第に彼に心を開いていくのだ。

藤田は知っていた。女は、絶えず自分を褒めちぎる男を決して嫌わない、ということを。

だが学生の頃などは、その情熱が仇となることもあった。

一目惚れした相手の通う女子高の最寄り駅で、一目だけでも彼女の顔を見ようと、毎日待ち伏せしていたら「怖い」と言われてしまったのだ。

藤田のこの異様な「美」へのこだわりの片鱗は、彼が大人になってからも続き、その情熱がしばしば相手を困惑させるほどであった。

だが、彼は同時に大変な美食家でもある。

大人になり、給料の他に不労所得を得ている藤田は、連れて行けば誰もが喜ぶような名店ばかりを馴染みにし、食事の間じゅう女を褒めちぎるため、女達から嫌われはしない。

が、熱烈に愛されもしない。

そして藤田の方でもまた、そんな女達を心から愛していたわけではなかった。

彼が愛していたのは、女の外見と、その女達と共にする食事の時間だった。

相手から呆れられて去られても、特段心が傷つく、といったことも無かった。

しかし、この藤田がただ一人、唯一心を乱された女がいる。

それが、現在の妻である絵里子だ。


美貌の妻・絵里子との出会いとは?


藤田が出会った理想の女


ー1年前

その日は11月だというのにまるで春のような陽気だった。だが、藤田の気分は重い。

せっかく、予約の取れないことで有名な『カンテサンス』の席を手に入れたというのに、藤田と約束していた沙耶華というモデルの女が、朝一番に断りの連絡を入れてきたからだ。

人形のように整った、しかし人工的でない顔立ちに惹かれて食事に誘ったのだが、約束を反故にするなんて、この店の価値がわからないか、もしくは飽きるほど訪れているのだろうか。

『カンテサンス』のようなグランメゾンに、男1人で入るのは気が引ける。

予約は明日の夜だ。誰を誘おうかと考えあぐねいてた藤田は、友人の中でもとにかく女好きな田村という男に声をかけた。

田村は、唸るほど金を持っている男達の主宰するホームパーティに美しい女達を連れていき、その両方から重宝されているような男だ。

相手探しも兼ねて、ちょうど今夜六本木一丁目のタワーマンションで開催されるという集まりに、混ぜてもらうことにした。

そこで、出会ってしまう。

部屋に入った途端に、こちらを射抜くように見つめる目と、目が合った。

左右対称な、形の良いアーモンドアイ。さらに、藤田の理想通りの、すっと通った鼻筋を持った女に、藤田はどうしようもなく惹かれていた。

ややぽってりとした唇は、乾燥しているのか少しひび割れていたが、藤田は構わない。

髪はバッサリと短く、全体的に化粧っ気がなかった。華奢な体つきで、脚などはまるで少女のように細い。 DJや給仕係がいるような今夜のホームパーティに、あまり馴染んでいないように見える。

他の女には目もくれず、藤田は目の前の女に声をかけていた。

「僕は、藤田直樹と申します。僕と一緒に、明日の夜『カンテサンス』というレストランに行ってくれませんか。絶対に後悔はさせません。約束します。」

これが藤田と、妻・絵里子の出会いだった。

自分でも、何故突然こんな誘い文句を口走ってしまったのだろう、と後悔した。だが、慌てて名刺を差し出すと、絵里子は両手でそれを受け取り、意外にもすんなりと食事に行くことを承諾しれくれた。

「このレストランはね、シェフのおまかせコースのみしか提供していないんだよ。縁がなければなかなか予約の取れないフレンチレストランで、内装もとっても素敵なんだよ。きっと、君の気に入ると思うよ。」

承諾してもらったことが嬉しく、興奮してレストランについて語ると、絵里子はツンとすました顔で答える。

「私、そんな高級なところ、あんまり行かないんです。ナイフやフォークの使う順番も不安なくらい。間違えてたら嫌だから、教えてくださいね。」

自信がない、と言いながらも、そう話す絵里子の表情は全く物怖じしていない。

その表情に、藤田は一瞬で心を掴まれてしまう。




だが次の日の夜、絵里子は結局店には現れなかった。

焦って電話をすると、うっかり寝ていた、と悪びれず答える。

「ごめんなさい」とか「今から急いで行くわ」などとは言わない。それでいて妙に落ち着いた態度なので、こちらもどうしたら良いかわからない。

こんな失礼な女にはもう会わなければ良い、と思いながらも藤田はどうしても絵里子ともう一度会わずにはいられなかった。

こうして、藤田の受難の日々が始まったのである。

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藤田の妻、絵里子は一体どんな女なのか?