「うち、くる?」

男の口からその言葉が零れた瞬間、女心は様々な感情で渦巻く。

高揚感、好奇心、そして、警戒心。

大手出版社で編集を務める由貴・29歳。

デート相手は星の数ほど、しかし少々ひねくれたワケありの彼女は、彼らの個性やライフスタイルが如実に表れる部屋を分析しながら、“男”という生き物を学んでいく。

昨年大好評を博した、「東京いい街・やれる部屋」 の新シリーズ。

これまで外資マーケターの高輪の部屋、港区おじさんの六本木一丁目の部屋、そして元彼の番町の部屋を訪れたが、今回は...?




神保町の交差点に、ヒロが運転するテスラのSUV「モデルX」の真っ白な高級車が止まると、私は思わずプッと笑いを吹き出してしまった。

古本屋やカレー屋、老舗の喫茶店がゴチャゴチャと立ち並ぶ神保町という街に、その次世代感たっぷりの最新型電気自動車は、あまりにミスマッチだったからだ。

「ユキ、おはよう。すごくいい街に住んでるね」

ヒロは目を大きく見開き、少し興奮気味に言った。

アメリカ生まれの彼にとっては、この神保町という街は、もはや観光ちっくな香りがするのかもしれない。

「本屋が多いから、ここに住んでるんだよ。会社も近いし」

「すごく素敵だね」

車に乗り込むと、ヒロはにっこりと微笑んだ。

ちょっと強めなコロンの香り、いささか人工的に見える、白く綺麗すぎる歯並び。そして、少しワザとらしいくらいの、このビッグ・スマイル。

外見は全くの日本人なのに、海外育ちの男というのは、ドメスティックな男とは格段に違う“まっとうな自信”と“紳士的な色気”があると思う。

彼は目下、私の一番お気に入りのデート相手だ。


海外育ちの彼との、少しドラマチックな出会いとは...?


物珍しく魅力的な男との、爽やかな出会い


「空が飛べそうな車だね」

テスラの後部座席のドアは、まるで巨大な鳥の翼のような奇抜な開き方をした。

「“ファルコンウィング”っていうんだよ。でもユキ、僕は調子に乗って、この車を選んだわけじゃないよ。マスクの考え方が好きなだけだから。テスラじゃなかったらプリウスを選ぶ」

ヒロはお茶目っぽい口調で言う。何となく海外ドラマ臭のする、少しシニカルな言葉の選び方。

“マスク”というのはテスラ社のCEOのイーロン・マスク氏のことだが、思想に共感するというだけで1千万を超える車をポンと買えるのだから、彼はきっと、かなり優秀な弁護士なのだろう。

ヒロ(本名は浩之という)は33歳の独身男で、アメリカとのダブル国籍だが一応は日本人だ。

生まれてから社会人になるまでほとんどアメリカで育ち、数年前に日本へやってきたという。大手外資系法律事務所に属するいわゆるエリートで、第二の故郷である日本が大好きだそうだ。

彼との出会いは、俗に言う“ナンパ”だった。

「村上春樹が、好きなんですか?」

顔の造りや背格好は、ちょっと清潔感のある十人並みの男とそう変わらないのに、東京ミッドタウンの『ル・パン・コティディアン』で突然話しかけられたとき、私は一目でヒロに好感を持ってしまった。

それは朝の8時前という早朝だったし、秋晴れの空と同様、彼の笑顔もあまりに爽やかだったのだ。




「...はい」

このとき私は、打ち合わせ前に少し時間ができたため、読みそびれていた村上春樹の新作『騎士団長殺し』を食い入るように読んでいた。

「僕も好きなんです。村上春樹」

このセリフに、コテコテの本好きである私の好奇心は十分に刺激された。しかも彼は日本語の読み書きが苦手なため、英訳された村上春樹を愛読していると言うのだ。

ヒロは私にとって、物珍しい男だった。

彼はいわゆる食事会や飲み会で出会うようなサラリーマン的な人種ではなかったし、港区にどっぷり染まったやんちゃなオーラもなければ、エリート特有の高飛車さもない。

重苦しい古典を好む読書家というアカデミックで独特な雰囲気も単純に魅力的で、まさに村上春樹の小説の主人公のようだ。

意気投合した私たちは、それから何度かデートを重ね、今日はとうとう、彼の住む「東京ガーデンテラス紀尾井町 紀尾井レジデンス」にお邪魔することになったのだった。


お洒落すぎる彼の部屋で、由貴が感じたのは...?


紀尾井町の、お洒落すぎる部屋


紀尾井レジデンスは東京ガーデンテラス紀尾井町内にあるマンションで、商業施設と併設され、また永田町駅直結という便利さゆえ、建設時からかなり話題になっていた。




“千代田区紀尾井町”というアドレスに魅力を感じる層も多いそうで、また周囲には、公立の名門校や緑も多い。都心にありながら、利便性と落ち着きを両立させた物件である。

ちなみにヒロがこのマンションを選んだのは、「ジムもあるし通勤も買い物も便利で、“六本木が近い”のに比較的静か」という、少し外人ぽい理由だ。

イメージ的には港区っぽいギラギラした富裕層が多い気がしていたが、主な住人は海外からの居住者や、子どものいる家族だそうだ。




あの赤坂プリンスの跡地というだけあり、このマンションのエントランスは、シックで豪華な空間だった。ラウンジには、ご丁寧にコーヒーまで置いてある。

「狭いけど、座っててね」

ヒロは男の一人暮らしにはちょうどいい、50平米強の1LDKの部屋に住んでいた。大きなバルコニーのある、シンプルに整った素敵な部屋だ。

彼はテキパキと白ワインやらチーズをテーブルに並べ、部屋の中で妙な存在感を放つ、いくつものスピーカーを丁寧にいじり始めた。

一応、今日ヒロの部屋に招かれたのは、彼の趣味の一つであるジャズを、彼がこだわり抜いて選んだ最高のスピーカーで私に聴かせてくれる名目だった。

実はジャズにも音質にも詳しくはないが、たしかに綺麗な音が耳に心地よく流れる。




しかし私は、このロマンチック過ぎる空間に、何となくソワソワし始めた。

しかもヒロは音楽に聴き入っているようで、始終笑顔は浮かべているものの、いつものように会話はせずにフンフンと小さく鼻歌を鳴らし、あまつさえパスタまで茹で始めたのだ。

私はワインとジャズの音とともにリビングに取り残され、くつろぐこともできずに背筋を伸ばしっぱなしだった。

完璧に演出された、あまりにお洒落な部屋。

それは家主同様、上品に丁寧に客を迎えてくれるのに、なぜかこちらの警戒心を刺激する。

「はい、どうぞ」

ヒロが作ってくれたキャベツとアンチョビのパスタはとても美味しかったが、その隙のない味に、私は「おいしい」以外の気の利いた言葉を見つけることができなかった。

パスタを頂いたあとは、デザートを遠慮し、「送る」と言ってくれた彼を制し、一人部屋を出た。

ヒロは少し怪訝な残念そうな顔をしていたが、帰り際にはいつものように優しくハグをしてくれた。



海外育ちの紳士な彼との時間は、何と言うか、まるで旅先で偶然素敵な男性に出会ってしまったような非日常的なドラマチックさがあった。

しかし、離婚という過酷な現実を経験している身としては、この夢想的な関係に身を投じる勇気は残されていなかったように思える。

簡単に言えば、私は彼の完璧さとロマンチック過ぎる部屋に、たぶん引いてしまったのだ。

永田町から、半蔵門線でたったの10分程度。同じ千代田区内であるのに、神保町に戻ると、私は変な緊張感から一気に解放された。

―『三幸園』で、餃子でも食べて帰ろうかな。

私はヒロの手作りパスタを食べたのも忘れ、あの安くて美味しい庶民的な中華料理が、無性に恋しくなっていた。

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神楽坂の高級賃貸に住む、ちょっと残念で可愛い商社マンのお話。