三菱自動車工業のミディアムクラス車に位置するギャランは、1987年10月に6代目に切り替わる。競合他車とは趣を異にする筋肉質なフォルムに先進のメカニズムを満載した新型は、たちまちユーザーの熱い支持を獲得。とくに“ACTIVE FOUR”を採用したVR-4は、史上最強のギャランとして人気を集めた。今回は歴代のなかで最もギャランらしいモデルと称賛される第6世代(1987〜1992年)で一席。


 

【Vol.39 6代目 三菱ギャラン】



好景気に沸く1980年代後半の日本の自動車業界。そのなかにあって国内メーカー3の地位を本田技研工業やマツダなどと競う三菱自動車工業は、独自の戦略を打ち出す。過大な投資を極力控え、ニッチ市場とくに4WD車市場の開拓や海外メーカーとの新たなる提携、そして既存モデルのインパクトのある全面改良で勝負しようとしたのだ。

■三菱ブランドならではのミディアムクラス車を目指して――

既存モデルの全面改良に際してとりわけ力を入れたのが、上級化および個性化の波が激しいミディアムクラス、具体的にはギャランΣの刷新だった。新型の開発コンセプトには、「自分の感性のこだわりに沿って生活のすべてを構成していきたいユーザーに向けた本物志向のクルマ」の創出を掲げる。ボディタイプは4ドアセダンの1本に絞り、そのぶん内外装のオリジナリティの強調や新機構の積極的な採用などを画策した。ちなみに、兄弟車でカープラザ店向けのエテルナΣは、「三菱車全体で考えると、基本的に同じセダンを販売するのには無駄がある」という考えから、欧州市場で人気の高い5ドアハッチバックのボディ形状を採用することとした。


もっとも注目を集めたのが最強モデルのVR-4。パフォーマンスだけでなく、エアロパーツをまとった筋肉質なルックスが話題に

次期型ギャランのスタイリングに関しては、サイドセクションにS字断面を導入した“オーガニックフォルム”を基本に、伝統の逆スラントノーズやグリップ式のドアノブ、リアサイドに組み込んだクォーターガラスなどで独自性を強調する。また、車高の低いスタイルが流行だった当時のミディアムクラス車のなかにあって、居住空間を重視した背の高いフォルムを導入した。一方でインテリアについては、上級感の引き上げとともに機能性の向上を踏まえてデザインする。インパネは2段式で構成し、そこにダイヤル式の空調スイッチや大型タイプのメーター、新造形の3本スポークステアリングなどを組み込んだ。

メカニズム面では、当時の三菱の新技術を積極的に盛り込む。とくに最強グレードには、1気筒当たり4バルブのDOHCエンジン(インタークーラーターボ付き4G63型1997cc直列4気筒DOHC16V)、VCU制御センターデフ式4WDシステム、同相式の4WS、4輪独立懸架のサスペンション、4輪ABSを採用。この4VALVE ENGINE/4WD/4WS/4IS/4ABSで構成する新システムは、総称して“ACTIVE FOUR”と呼んだ。

■“INDIVIDUAL 4DOOR”を謳って市場デビュー




インテリアは上級感の演出と機能性の向上がテーマ。2段式のインパネ、新デザインの3本スポークステアリングが特徴的だった

1987年10月、瑤離汽屮諭璽爐鯒僂靴真祁織ャランが市場に放たれる。第6世代となるギャランは、キャッチフレーズを“INDIVIDUAL 4DOOR”と呼称。グレード展開は4G32型1597cc直列4気筒OHCエンジン(79ps)搭載のME/GE/G、4G37型1755cc直列4気筒OHCキャブレター仕様(85ps)のMF/GF、同インジェクション仕様(94ps)のMS/VS、4G63型1997cc直列4気筒DOHC16Vエンジン(140ps)搭載のMX/VX/VZをラインアップする。さらに2カ月ほどが経過した同年12月になると、4G63型1997cc直列4気筒DOHC16Vインタークーラーターボエンジン(205ps)を含む“ACTIVE FOUR”を採用したVR-4と、NAの4G63型1997cc直4DOHC16Vエンジンにフルタイム4WD機構を組み合わせたVX-4を発売。同時に、競技用ベース車となるVR-4 Rを100台限定でリリースした。

数ある車種ラインアップのなかでユーザーが最も熱い視線を注いだのは、ACTIVE FOURの新機構を盛り込んだ最強モデルのVR-4だった。強力な加速や優れたトラクション性能といったパフォーマンスはもちろん、エアロパーツを纏った筋肉質なルックスや個性を放つ内装デザインなどが、他メーカーのスポーツセダンとは一線を画していたのだ。VR-4を筆頭とする6代目ギャランのキャラクターは識者からも高く評価され、三菱車として初となる日本カー・オブ・ザ・イヤーの受賞に至る。これを記念して、1988年3月にはセルビアブラックの専用ボディカラーや記念エンブレムなどを採用したVR-4カー・オブ・ザ・イヤー特別仕様を発売。さらに、競技用ベース車のVR-4 RSと4D65型1795cc直列4気筒OHCディーゼルターボエンジン(76ps)搭載車のMF/GEを設定した。

■VR-4は着実にパワーアップを実施

受賞という名誉とともに市場での販売台数を伸ばした6代目ギャラン。その人気を維持しようと、三菱自工は精力的に車種設定の拡大やメカニズムの改良を図っていく。まず1988年10月には、ボディカラーや装備の見直しなどを実施。同時に、VXをベースにVR-4と同様の外装パーツを装着したVX-S、4G37型(インジェクション仕様)エンジンの4WD仕様となるMS-4とGS-4を追加する。さらに1989年4月には、4G67型1836cc直列4気筒DOHCエンジン(135ps)を新搭載したVientoとMU EXTRAなどをリリースした。

1989年10月になるとマイナーチェンジを実施し、市場からの要望が多かったVR-4のAT仕様を新規に設定する。ATの特性に合わせて、最高出力は210psとした。一方、MT仕様は過給器などのセッティング変更を行って最高出力を220psにまで引き上げる。ほかにも、NAの4G63型エンジンの出力アップ(145ps)や内外装の刷新なども敢行した。この時のマイナーチェンジではもう1台、注目のモデルが登場する。ドイツのAMG社と共同で開発した「2.0DOHC AMG」がラインアップに加わったのだ。AMGモデルの企画は6代目ギャランがデビューする前の1986年末に立ち上がり、1988年夏には最終的な仕様が決定。AMG側が内外装デザインや排気系を、三菱側がエンジンや足回りのセッティングなどを担当した。VR-4よりも高価なプライスタグを掲げたギャランAMGは、1991年1月に価格を見直したタイプ2の設定を経て、1395台が生産される。その稀少性や特異なキャラクターは、後に三菱車ファンの語り草となった。

1990年に入ると、まず1月に特別仕様車の「2.0DOHC TURBO SUPER VR-4」を発売する。これは前年のRACラリーでVR-4が総合優勝を果たした記念に造ったモデルで、専用ボディカラー(オニキスブラック)や本革スポーツシートなどを奢っていた。さらに10月なると、一部改良を敢行。VR-4はターボタービンの変更やインタークーラーの大型化、マフラー径の拡大などにより最高出力が240psにまでアップし、それに伴ってMTミッションのセッティング変更や足回りの強化、ダクト付きフロントフードの採用などを実施した。また、オニキスブラックのボディ色やサンルーフ、ビスカスLSD、専用デカールを装備した特別仕様車の「2.0DOHC TURBO VR-4モンテカルロ」を発売する。翌'91年6月には、VR-4 RSをベースに電動リアスポイラーやオートエアコン、シュロスシルバーのボディ色を配した特別仕様車の「VR-4 Armed by RALLIART」をリリースした。

1992年5月になると、ギャランは3ナンバーボディに一新して上級化を図った第7世代に移行する。同時に、ラリー直系のスポーツセダンという特性はランサー・エボリューション(1992年9月発表)に引き継がれた。“Victory Runner 4WD”ことVR-4をイメージリーダーに、アグレッシブなスタイリングと高性能な走りでユーザーを魅了した6代目ギャラン。そのインパクトの強いキャラクターは、後に「歴代モデルのなかで最もギャランらしい世代」とファンから称賛されるようになったのである。

■三菱のWRCへの本格的な復帰はギャランVR-4から始まった


三菱はVR-4でWRCに本格復帰する。大柄で背が高いルックスから“リムジン”と揶揄されるなか、着実に成果をあげていった

世界ラリー選手権(WRC)は1987年シーズンより、年間5000台以上(1993年からは2500台以上)を生産する市販車ベースのグループA車両をトップカテゴリーとして争われる選手権に移行したが、三菱自工および傘下のラリーアート(1984年4月設立)は、ここにギャランVR-4を投入する計画を立てた。実行されたのは1988年。当初は全日本ラリー選手権やアジア・パシフィックラリー選手権(APRC)に参戦しながらマシンの開発を進め、同年開催のニュージーランド・ラリーにおいてギャランVR-4でのWRC初陣を飾る。ドライバーは三菱自工に所属していた篠塚建次郎選手が務めた。ちなみに、篠塚選手は1988年シーズンのAPRCでドライバーズタイトルを獲得するという偉業も達成した。当初はWRC界で、その大柄で背の高いスタイルから“リムジン”などと揶揄されたギャランVR-4だが、参戦を重ねるに連れて完成度が増し、とくにグラベルにおいて抜群の速さを見せたことから“グラベルのミツビシ”と称されるようになる。戦績としても、1989年シーズンの1000湖ラリーとRACラリー、1990年シーズンのコートジボアール・ラリー、1991年シーズンのスウェディッシュ・ラリーとコートジボアール・ラリー、1992年シーズンのコートジボアール・ラリーで総合優勝を成し遂げた。