『写真:AFLO』

 もしもの場合に備えて、エンディングノートを書く人は多い。二村祐輔さん(64)は1999年にノート形式にこだわった「マイ・エンディングノート」を自ら発行した。現在数多く世に出ているエンディングノートの生みの親である。

 二村さんは25歳のときに勤めていた会社を辞め、社長と知り合いだった関係で、千代田区内にあった家族経営の小さな葬儀社に入った。すべてはそこから始まる。

「よくその会社の前を行き来していて、運送会社かなと思っていたら葬儀社。父は田舎で僧侶をしていたことがあったのですが、僧侶を継ぎませんでした。それで、いよいよ私のところにお鉢が回ってきて、人の生き死にに関わる仕事をせざるをえないのかなと観念したんです」

 従業員は社長家族以外は二村さんだけの小さな会社だったが、場所柄企業からの仕事がけっこうあり、青山斎場や築地本願寺など大規模な仕事もした。

 利益率も今に比べると格段によく、いち早くワープロやパソコンを導入し、見積書などもそれで作った。最大手の葬儀社がカーボンコピーつきの見積書に一式100万円と書く時代に、椅子が何台、テーブルが何台と必要項目を細かく打ち込んで提出した。そのせいもあり企業の相見積もりの際は、仕事がよく取れた。

 42歳のとき、そんな二村さんに転機が訪れる。

「当時は葬式の値段がきわめて不明朗で、亡くなった方の家の門構えや、車を見て値段を決めるといわれた時代です。それではいけないと思い、会社の価格を参考に提示した『大往生の値段』という本を出しました。

 当時、葬式関係の本といえば冠婚葬祭の礼儀作法書です。ところがこれは、葬式の値段が出ていることから読者の関心を集め、よく売れました」

 しかし、この本が問題になった。

「余計なことをしたということです。業界は金額にはふれてもらいたくなかった」

 それで業界からにらまれた。一方で二村さんには、休みがないことや、会社を飛躍させる経営プランがないことへの不満もあった。それで辞職を申し出ると、立場の問題もあったのか解雇された。

 在職中は18年間で、数千人規模の葬式から、身寄りのない方の見送りまで、約2500件の葬式のすべてを一人で取り仕切ってきた。

「経験を生かして葬祭コンサルタントをやろうと思いましたが、なかなかうまくいかなかった。そんな折に、みのもんたさんの『おもいッきりテレビ』が葬儀を取り上 げたいということで、けっこう長い期間、出演させていただいた。

 ほかのいろいろな番組にも出演し、マスコミの力がはずみになりました。

 また、当時は全国の葬祭企業がホールを建てる時期にあたりました。ホールを建てるにあたり新入社員の雇用と教育、そして営業の3点についてコンサルタント業が成り立つようになって、現在に至っています」

 ところで、二村さんは2011年の東日本大震災のとき、九段会館の天井崩落で九死に一生を得た。専門学校の卒業式で、両隣の同僚の女性非常勤講師は亡くなった。落下物が頭に当たるか、肩に当たるかの違いが生死を分けた。二村さんは重傷を負った。

「逃げようとしたらドーンと天井が落ちてきて、生き埋めになった。東京大地震が来て、東京中が同じような状態だろうと思っていた。助かったのは運がよかったこともあるし、まだやることがあるから簡単には死なせない、ということだと思いました」

 現在、二村さんはコンサルタント業のほかに、年100回に及ぶセミナーで葬祭について語り、これまで葬式を敬遠してきたホテルなどに、宴会場を使った新しい見送り方を提案、推進している。

 また、大学教育に葬祭学の導入を目指し、都内の大学で葬祭ビジネスの講義を時々おこなっている。さらに9月には『気持ちが伝わる マイ・エンディングノート』(池田書店)を新たに出版した。

 やるべきことがまだまだあり、やはり簡単には死なせてもらえないようだ。

(週刊FLASH 2017年11月7日号)