文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「商売は大変なことだ。よその家へ行っても玄関からではなく、いつも勝手口から入らなければならないからなあ」
--14代目盛田久佐衛門

愛知県の知多半島で350 年以上の歴史を誇る日本酒の蔵元「盛田」。これが、ソニーの盛田昭夫の生家であった。

盛田家では、代々当主となった者は久佐衛門を名乗るのがしきたりだった。14代目盛田久佐衛門が盛田昭夫の父。盛田昭夫は15代目当主となるべく、大正10年(1921)1月、盛田家の長男として生まれている。昭夫が小学校に入ると、父は将来を見据え、役員会に同席させたり、棚卸の時季には現場に連れていって従業員の仕事ぶりを見学させたりしたという。これが父・久佐衛門の後継者育成法だったのだろう。

昭夫の頭に残っている父は、「慎重派で石橋を叩いても渡らないような人」だったという。というのも、14代目久佐衛門には苦い体験があった。慶応大学在学中に家産が傾き、退学を余儀なくされたのである。前の2代の久佐衛門があまり商売に熱心でなく、番頭に任せきりにしていたことが原因だったらしい。14代目久佐衛門は、これを反面教師にして自分自身の身を慎み、熱心に商売に向き合い家業を立て直した。

そんな久佐衛門が口癖のように発していたのが、掲出のことばだった。家業再建の苦労がよほど身に沁みていたのだろう。盛田昭夫ものちのちまで、父のこのことばを忘れることなく胸に刻みつけていた。

一方で父・久佐衛門は息子に対し、11代目当主の盛田命祺のことをよく語って聞かせたという。長兄の死によって家業を継いだ命祺は、酒造りに加えて味噌や醤油づくりにも取り組み、さらに大型の千石船を建造し、江戸にまで商売を広げた。「盛田家中興の祖」と言うべき人だった。父は昭夫に向かって、「お前には偉大な命祺の血が流れている」と、繰り返し言っていたという。父親として、長男に大きな期待を寄せていた。

その後、盛田昭夫は大阪大学理学部へ進み物理学を専攻する。父はこれを寛容に見守っていた。いずれ家業を継いでくれるものとばかり考えていたのだろう。昭夫は大学に在籍しながら海軍の研究委託学生となり、横須賀の航空技術厰に配属されレーダーなどの研究に勤しんだ。この関係の研究会で、昭夫は井深大と出会う。井深は昭夫よりひとまわり以上も年上で日本測定器常務をつとめていたが、そんな年齢差や立場の違いをこえ、両人はたちまち意気投合するのである。

敗戦後、昭夫はいったん家業を継ぐ。ところが、あるとき新聞記事のコラムに東京通信工業を設立した井深大のことが紹介されていた。昭夫はいてもたってもいられなくなり、父の制止を振り切って家業を弟に任せて上京し、井深の手伝いをはじめる。

技術屋集団だった東通工の営業・販売部門を盛田昭夫が一手に引き受け、会社は次第に軌道にのっていく。父・14代目久佐衛門に叩き込まれた商人としての心構えが、思わぬ形で力を発揮したのだ。家業の継承・発展を昭夫に託すという父の願いは裏切られたわけだが、その訓えはもっと大きなところで花開いたと言っていい。

東通工が社名をSONYに変更するのは、昭和32年(1957)のことである。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。