「5バックだからと言って守備的というわけではないです」という解説者の語りに、実況アナが「システムだけでは決められないですからね。サッカーは日々変化していますから」と答える大胆なやりとりを、テレビの中継で耳にしたことがある。5バックになれば、その前で構える人数は減る。その時、攻守が切り替わり、マイボールに転じれば、少ない人数で攻めることになる。サッカーがいくら進化するスポーツだと言っても、守備的以外の解釈を、そこに見いだすことは難しい。

 これは、定説を覆す会話に違和感を覚えたケースだが、一方で、定説に従順すぎるやりとりに、違和感を覚えたケースもある。

「シュートは打つべきですね」。「シュートは打たなきゃ入りませんから」。シュートではなく、明らかにパスした方が得点に繋がりそうな場合でも、そう観念的に語られると、思わず突っ込みを入れたくなる。

 日本の選手は概してシュートに対して臆病だ。優れたセンターフォワードも少ない。ファンも敗因の多くを、決定力不足に求めようとしがちだ。シュートを積極的に放とうとする選手を、讃える習慣がある。

 現場にも、監督コーチから発せられた「そこは、打っとけ!」との声が響き渡る。無理なシュートが大きく外れても「ナイス、ナイス」「ドンマイ、ドンマイ」と、肯定される。その「打っとけ!」には、かつての「蹴っとけ!」に近い響きを感じさせるというのにだ。シュート絶対主義に異を唱える人は少ない。

 状況にもよる。シュートの成功率が4割。パスした方がより決定的になる割合が6割なら「ドンマイ」でいい。3対7でも「ドンマイ」だ。しかし、2対8、1対9でも「シュートは打たなきゃ入りませんから」と、打つことをほぼ全面的に肯定しようとするムードに支配されがちな日本。行きすぎだと僕は思う。

 是か非かは、周囲の選手の反応を見るのが一番いい。がっかりしていたり、シラケていれば、それはシュートの判断が間違っていたことを意味する。フリーで構えていた選手が、ジェスチャーを交えてがっかりしているシーンが度重なれば、チームのムードは逆に悪くなっていく。試合の流れを変えてしまう恐れさえある。

 ボレーシュートを称賛する風潮も、根は同じだ。「なぜボレーで打たなかったんでしょうか」。トラップした後に放ったシュートが、満足にヒットしなかったり、シュートチャンスそのものを潰してしまった時、テレビの実況と解説は、よくそう言って嘆くが、本当にボレーの方がよかったのか、はなはだ怪しい場合でも、ボレー絶対主義は頑なに貫かれる。

 一番の目的は、GKが手の届かない場所にボールを蹴り込むことだ。与えられた時間が十分あるなら、正確さを求めるのがセオリーだ。止めて蹴り込む。その時間がなさそうな場合、ボレーで蹴っても、隅に蹴り込む自信がある場合、あるいは意表を突くことに意義がありそうな場合等々を除けば、しっかり止めて、しっかり隅を狙って打つべきなのだ。ボレー絶対主義もゴール前でクールになれない、日本人気質を反映したものに見えてしまう。

 シュートかパスか。スタメン争いをしているフォワードとスタメンに定着したレギュラークラスとで、比重が違うのは当然だ。スタメン争いをしているなら、2対8でも打つべきなのかもしれない。そうした状況に置かれた外国人選手は、利己主義の塊になる。だが、一方で彼らは、ヒエラルキが出来上がった世界では、その序列に従おうとする。

 メッシやクリスティアーノ・ロナウドのような絶対的エースが、フリーでいるのに、パスを出さない選手はまずいない。ルイス・スアレスは、5対5の状況でさえ、メッシにパスを送ろうとする。メッシも同様。強引な振る舞いは少ない。確率を優先しようとする。