春香が、24歳のとき。

心から愛していた男が、ある日忽然と姿を消した。

その日から、春香の時計の針は止まったまま。食事会に行っても新しい恋人が出来ても、まとわりつくのはかつて愛した男の記憶。

過去の記憶という呪縛から逃れることのない女は、最後に幸せを掴み取る事ができるのか?

最愛の恋人・祐也が姿を消してから、祐也への未練を吹っ切れずにいた春香に、ついに彼氏ができた。

ところが、新恋人・シゲにも祐也がしてくれたことと同じことを求めてしまい、春香はシゲから「面倒くさい」と言われてしまうのだった。




春香はソファで膝を抱えながら、スマホ画面をじっと睨み付けていた。

誕生日にシゲから言われた「面倒くさい」の一言が頭の中でリピートしている。

これ以上面倒な女になってはいけない、と自分に言い聞かせていたら、LINEをするタイミングがわからなくなってしまった。そうこうしているうちにもう3日。シゲからは何の音沙汰もないままだ。

-シゲとはもう無理な気がする。でもこれしきのことでくじけるのは根性が無さすぎるよね。途中で物事を投げ出すのだけは絶対ダメ…。

春香は、シゲとの関係が終わりかけていることにとっくに気がついていた。膝を抱えて悶々とするよりは、いっそのこと潔く別れてしまった方が楽だということも。

しかしこんなときに限って、ずっと昔、中学時代に駅伝部で先生からいつも言われていた「途中で物事を投げ出す人間にだけはなるな」という教えがはっきりと蘇る。もはやここまでくると忍耐の域だ。

そのとき突然、スマホがブルブルと振動した。

「シゲからLINE、きた!!!!!」

ポップアップ画面にシゲの名前を確認し、春香はガッツポーズをしてソファから飛び上がる。しかもLINEを開いた瞬間、これまでに見たことがないようなずらずらとした長文が目に飛び込んできたのだ。

-シゲったら!3日分の近況報告が溜まっていたのかしら?!

ところが、じっくり読み始めた途端、春香の高ぶる気持ちはみるみるうちにしぼんでいった。


シゲから久々に送られてきた長文LINEの内容は何なのか?


-はるちゃん、ここ数日ずっと考えていたのだけど、僕たち、このまま付き合い続けるのはちょっと難しいかと思います。はるちゃんにはもっとマメな男が合っていると思うし…

そのあと延々と続くシゲの言い訳から目をそらすようにして、がっくりとうなだれる。

元彼には何も言われず姿を消されるし、今彼にはLINE一本でふられてしまうなんて。いや、そんなシゲも数秒前から元彼の仲間入りをしたのだが。

-もしかして私って面倒な女どころか、男が逃げたくなる女…?!

そして春香は、先日六本木ヒルズで、祐也に似た後ろ姿の男を追いかけたことを思い出した。


元彼に似た後ろ姿の男


小走りで男の後を追いながら、数百メートルも来たところで勇気を出して肩を叩いた。

「待って!」

しかし、振り返った男は全くの別人だった。

「あの、何か…?」

「すみません…人違いでした!」

春香はぺこぺこと頭を下げて謝ると、逃げるようにその場を去ったのだった。

赤の他人を祐也と思い込むなんて、どうかしている。本当はまだ、次の恋愛に進む準備が出来ていないのかもしれないと、強く自分を責めた。



「恵子、恋愛は懲り懲りだわ…。しばらく休憩する」

シゲにふられたことを電話で報告し、春香が深いため息をつくと、恵子は慌てて言った。

「ちょっと待ってよ、この間まで休憩してたのに、また休憩に入るの?!中学の部活で鍛えたとか息巻いてたはずの忍耐力は一体どこへ行っちゃったのよ」

「そうね、どこかへ行っちゃったみたい…」

気合を入れて飛び出したはずの恋愛の世界は、春香にとっては、駅伝部で直面した心臓破りの坂よりも、ずっと険しかったのだ。反論する元気もなく、か細い声で呟いた。

「とにかく引きこもりだけにはならないでね。もしよかったら、今から私のサークル時代の友達と飲むから、春香も気晴らしに来たら?皆、いい子たちだよ」

恵子は優しく言って電話を切った。



恵子に指定されて向かった先は白金高輪の『福わうち』だ。

「春香、こっちこっち」

店に到着すると、恵子が立ち上がって手を振っている。その周りで談笑している数名の中の一人を見て、思わず後ずさりした。

-あれは…!“後ろ姿だけ祐也”の人!

それはまさに、春香が六本木で祐也と間違えた男だったのだ。

-これは気まずい!

春香は、気がつかれないよう忍び足で、その男から一番離れた席を目指したが、彼は大きな声で春香を呼び止めた。

「ここ、空いてますよ!どうぞ」

しぶしぶ隣に座ると、彼はにっこり笑って挨拶をする。

「はじめまして」

春香はホッとした。どうやら先日の出来事は覚えていないようだ。

彼の名前は、慶一郎といった。

あらためて見てみると、祐也とは似ても似つかない。共通点はクセ毛と体格くらいなのに、一体どこをどうしたら間違えるのだろう。春香は赤面して目をそらした。


帰り道に春香は慶一郎と2人きりになる。


そのあとは、恵子のサークルの内輪話にはついていけなかったけれど、にぎやかな雰囲気が楽しくてなんだか気が晴れた。〆のメニューとして人気の肉じゃがカレーも食べたし、大満足だ。


嘘がつけない女


帰り道、春香は地下鉄で慶一郎と2人きりになった。

-この間のこと覚えてないみたいだし、良かった…。

彼の顔をちらちら見ていたら、目がばっちり合った。慌てて顔をふせると、慶一郎は不思議そうに春香を覗き込む。

「春香ちゃん、さっきから全然目合わせないけど、俺、何かマズいことした?」

春香は首を横にふり、とっさに思いついた言い訳を口にした。

「いえ、そんなことないんですけど、私すっごく人見知りなんです。初めて会う人とうまく話せなくって!」

すると慶一郎はくすっと笑った。

「でも、初めましてじゃないよね。本当は」

「えっ…」

うろたえている春香を見つめながら、慶一郎は続ける。

「このあいだ、十番で会ったよね。あのとき、ずいぶん切羽詰まってたみたいだけど、誰と間違えたの?もしかして、元彼だったりして」

-図星!なんなの、この人!

春香はムキになって否定した。

「そんなことありません。全然違います!」

慶一郎は、慌てふためく春香を面白おかしそうに眺めている。

「わかりやすい。図星って思い切り顔に書いてあるよ」

そして納得したように頷いた。

「春香ちゃんって、嘘がつけないタイプなんだね」

その瞬間、春香は何も言えなくなって固まった。

「それにしても、俺ってそんなに春香ちゃんの元彼に似てるの?興味あるなあ。あ、俺ここで降りるから、じゃあね」

興味あると言った割に、地下鉄が目黒駅に到着した途端、慶一郎は振り返ることなくあっさりと電車から降りて行った。

-嘘つけないタイプって…。祐也と同じセリフをあなたが言わないでよ…。

どう考えても悪いのは人違いをした自分だというのに、心の中でそっと大切に守ってきた思い出を台無しにされた気がして、心がもやもやする。

やっぱり、祐也とは全然似ていない。顔も似てないし、性格だって。祐也はあんな風に他人の心に土足で踏み込むようなタイプではなかった。

-しかもあの人、気がついてたのに気づいてないふりして、何食わぬ顔で初めまして!とか爽やかに言っちゃって。なんか嫌な感じの人!

でも、きっと彼とはもう二度と会うこともないだろうから忘れよう。春香は電車の中で大きく頷いた。




翌朝、起き抜けにスマホを見て呆気にとられた。なんと、慶一郎から個別LINEが来たのだ。

-春香ちゃん、昨日はありがとう。

すると、春香が既読にしたのを待ち構えていたかのように続けてメッセージがやってきた。

「ひえっ…」

春香はスマホを手から落としそうになるのをなんとか堪え、おそるおそる画面を覗き込む。

-また会えるとは、本当に奇遇だったね。今後ともよろしく!

好きな人からはどんなに待っても連絡は来ないのに、好きでもない男からは簡単にLINEがやってくる。それが現実か…。

春香はうんざりした気持ちでベッドに突っ伏すのだった。

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祐也の目撃情報を耳にしてしまう春香。