スタインウェイ・グランドピアノの内リムと外リムを一工程で製造している。1880年にテオドア・スタインウェイが特許をとり、現在でもスタインウェイ独自の製造法だ(写真:『アイコン的組織論』より)

本記事は『アイコン的組織論』(フィルムアート社)からの抜粋。同書に掲載された「アイコン化した強い組織」の知られざる秘密について説明されている箇所を5日連続で紹介する。第2回は世界最高峰のピアノメーカーとして知られるスタインウェイの強さの秘密について。

コンサート・ピアノにおける世界一のアイコン

1853年にハインリッヒ・エンゲルハート・スタインヴェク(のちに英国式にスタインウェイとなる)は、世界最高のピアノを受け入れられやすい価格帯で製造することを目指し、会社を立ち上げた。20年間の時を経て、この完璧主義と実用主義の組み合わせで、同社は一流のピアノ製造業者になった。

1867年のパリ万博博覧会では、スタインウェイが最新のグランドピアノを展示すると、人が殺到したという。「スタインウェイ氏の息子のひとりがピアノの横に立ち、演奏が途切れないようにしていた」と答申書には記載されている。「万博に足を運んだ人たちは音色に魅了され、何カ月も大勢の人が途切れなく、その場にいた」。

陪審員たちもピアノに魅了された。音楽雑誌『ガゼット・ミュジカル・ド・パリ』(『La Gazette Musicale de Paris 』)も、この熱狂について触れている。その結果、万国博覧会の期間中、唯一の賞は、スタインウェイ氏に授与された。

パリで人が殺到したのは、スタインウェイがピアノのデザインに斬新な改善を施していたからだった。当時ピアノは、増加していた中流階級の居間に音楽をもたらす楽器として選ばれていた。19世紀のステレオと言っていい。だが家庭の居間には十分な柔らかい音も、拡大しつつあったコンサートホールでの演奏には十分ではなかった。当時のグランドピアノは、力強さや音量が不足していたのだ。

たとえばピアノの楽聖、フランツ・リストはコンサートでは2台のピアノを要求していた。仮に1台目のピアノ線やハンマーに支障が出たら、すぐに2台目のピアノに切り替えるためだ。

スタインウェイは息子たちとともに本質的な改革を多く起こし、ピアノを、今日私たちが知っている楽器へと生まれ変わらせた。「ハインリッヒは研究、調査の人で、さらに行動が早い人でした」。今日、スタインウェイでヨーロッパとアジアを統轄しているヴェルナー・ヘスマンは言う。「そしてその精神を、息子さんたちに引き継いでいます」。

ハインリッヒはグランドピアノでは初めて、交差弦方式を採用している。そうすることで、ベース弦が響鳴板のより中央に位置するようになり、音振動が増幅された。そして息子のテオドアが、内リムと外リムを一工程で製造する方式を開発し、さらに振動を改良している。これにより、弦の振動はヴァイオリンのように伝わるようになった。

スタインウェイの製造法は非常に費用がかかったため、社としてはそれに見合う価格設定をしなければならなかった。たとえば、木目のある長さ7メートルの完璧な木材を準備し、製造工程の最初から、完全なピアノ・ケースをステップ毎に工場から運送しなければならなかった。そのためにまとまった投資が必要だった。

市場のシェアを獲得し、築いた優位性


パリ万国博覧会でスタインウェイのピアノの音色に熱狂し、ピアニストになりたがる人たち

ウィリアム・スタインウェイ(ハインリッヒの息子)も、市場のシェアを獲得するのに重要な役割を担った。当時名が知られていたパリのピアノ製造業者、プレイエルやエラールのコンサートホールは収容人数が2000名以下だったのに対し、彼はマンハッタンに2500名以上の客席があるコンサートホールを建設した。

スタインウェイ・ホールはその規模のおかげで最高のピアニストを招くことができ、そのフィードバックを受けてスタインウェイはピアノを大ホール用に完璧に調整することができた。

同社はグランドピアノのセグメントでトップの地位を築き、長期にわたりその優位性を保ってきた。スタインウェイが君臨しているところに競合他社が入り、莫大なコストを回収できる規模を築くのは難しい。

初代のスタンウェイが会社に導入した、品質を重んじるDNAは、1880年に試練を迎えた。中流階級で音楽に親しむ人が増え、居間に置くアップライト・ピアノの需要が拡大したのだ。テオドアは、急成長している安価なピアノ市場への参入を希望したが、ウィリアムが最高品質のピアノ製造者としてのスタインウェイの道を守り抜いた。20年後、需要が見込まれる自動演奏機能付きピアノが登場したときにも、スタインウェインは自社に取り入れることはしなかった。

振り返ると、市場のトップ・セグメントに集中するという、こうした判断は正しいものだった。1920年にラジオが登場すると、自動演奏機能付きピアノの市場は干上がり、1929年の世界恐慌でアップライト市場にも同様のことが起こった。世紀の変わり目には1400あったピアノ製造業者のほとんどが倒産している。

2度めの試練

1972年、ファミリー・ビジネスの創業から120年が経ち、スタインウェ
イの品質のDNAはまたしても試練を迎えた。アメリカの巨大メディアグループ、CBSに会社が売却されたときだ。

ピアノ市場は、日本製の低コストのメーカーや電子ピアノの台頭など、いくつかの要因で切迫していた。スタインウェイの株を持っていた子孫たちは、会社に必要なだけの投資をすることはできず、十分に資本を持つCBSの買収は、悪くない解決に思えた。実際、買収後は長年の懸案だった生産設備への投資が行われた。

CBSは投資を回収するためにいくつかの措置を取り、そのひとつがコストの削減だった。スタインウェイの製造工程は手間とコストのかかるものだったので、これは意外ではなかった。たとえば、社では独自の木材専門家がいて、世界市場で最高品質の木材を購入していた。購入したあとは12カ月から24カ月の期間、乾燥させる。そのうえで品質が基準に満たない約半数は使用されない。この種の膨大なコストを、CBSは減らそうと考えたのだ。さらに収益も増やそうと、たとえば流通網を早々に拡大しようとした。その過程で、スタインウェイが伝統的にピアノ販売業者に求めてきた専門知識などの基準は緩められた。

CBSの方針は、散々な結果となった。確かに最初は売上も利益も伸びたものの、スタインウェイの評判に傷がついたのだ。ピアニストたちはスタインウェイの品質に疑問を感じるようになり、スタインウェイのグランドピアノの下取りが盛んになった。

1977年から1985年のあいだに、CBSはマネジング・ディレクターを4人変え――その前の120年と同じ人数だ――、会社を立て直そうとしたが、会社に対する顧客や従業員の信頼は低下の一途をたどった。社内の士気も下がり、とうとうCBSは音楽部門を廃止し、販売プロセスがうまくいかなかったスタインウェイも売られた。

世間や従業員の信頼に傷はついたものの、スタインウェイのDNAは完全なままだったようで、社は昔の地位を取り戻すことができた。従業員は従来の品質を高く評価しており、新しいマネジメントと建設的な議論が行われた。ニューヨーク・タイムズの厳しい批評家も1995年にこう書いた。

「最近クイーンズのスタインウェイの工場に行ったが、ピアノを改善しようとする真剣な取り組みが見られた。2、3年前と比べると、仕上がりを丁寧に確認している。外部の技術者たちがスタインウェイはよくなっている、と言っているのもいい傾向だ」

スタインウェイは製造プロセスだけではなく、流通網の見直しも行った。最高の代理店だけにスタインウェイの販売を託すようにしたのだ。アメリカでは、153あった代理店を110まで減らした。そしてスタインウェイにふさわしい専門知識、地位、品質などを求めた。たとえば代理店のピアノ技術者は、スタインウェイのニューヨークあるいはハンブルグの工場で5日
間の研修を受けることが義務づけられている。こうすることで、スタインウェイは能力循環に代理店を取り込んでいる。

そのままにしておくのがいちばん


2013年9月19日、スタインウェイ(1996年から公営だった)は、ジョン・ポールソンに引き継がれた。再生企業を買収するのが彼の仕事だったが、スタンウェイを引き継いだのは、まったく別の理由からだったという。

「完璧なものがあって、その分野でたぐいまれな位置を占めているなら、そのままにしておくのがいちばんです。私の姉妹ふたりはピアノが好きで、スタインウェイを夢見ていました。父には手が出なかったので、小さめのグランドピアノを買ったのですが、それはスタインウェイではありませんでした。ピアノが配達されたとき、2人が泣いていたのを覚えています。そのときに、初めて気づきました。スタインウェイというのは、本当に特別なんだと。私がやりたいのは、スタインウェイを守り、ピアノの品質を保つことです」

スタインウェイは、160年の歴史の大半がそうであったように、再びアイコンとなった。名だたるコンサートホールでの、ピアノコンサートのほとんどが、スタインウェイで演奏されている。