ギリシャ北部の都市テッサロニキの街角にあった、欧州を死に神に見立てた落書き。小さな入り口しか開いていない壁が胴体になっており、鉄条網と一緒に描かれている(2015年10月4日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News

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【AFP=時事】2015年8月、オーストリアの道路脇に鶏肉の冷凍輸送トラックが乗り捨てられていた。警察が荷台を開けると、中には、形をとどめないほど腐乱した71人の難民の遺体が詰まっていた。隣国ハンガリーに密入国させられて間もなく、トラックの中で窒息死した、シリア、イラク、アフガニスタンからの難民たちだった。今年6月、この移民たちを密航させた組織の11人が、人身取引と拷問の罪を問う裁判にかけられた。

 そこから5000キロ近く離れたシリア北東部の街カーミシュリー(Qamishli)で、AFPのビデオジャーナリスト、ジハード・ダーウイッシュ(Gihad Darwish)はそのニュースを見ながら、まさか、信じられないと思いながら、紛れもない恐怖におののいていた。トラックから出てきた腐乱死体の中に、義理の兄弟2人と友人たちがいたのだ。

<シリア・カーミシュリー>私たちシリア人は毎日のように欧州に避難することについて話している。インターネットカフェに行きさえすれば必ず二つの世界、故郷と、約束の地へたどり着こうとしている、あるいはすでにたどり着いた人々の間で交わされている会話が耳に入る。2年前、私もそうした会話を2人の親友、フセインとラマンと四六時中交わしていた。2人は厳しい試練をくぐっているさなかだった。

 36歳のフセインと23歳のラマンは私の義理の兄弟だった。でもそうなるずっと前から私たちは友人だった。特に、15年前に大学時代にダマスカス(Damascus)で出会ったフセインとは、彼が義理の兄弟になってから友情は深まる一方だった。フセインとラマン、それからもう1人の友人マスードは、2015年にカーミシュリーを後にした。その年、危険で過酷な旅路を選んだ多数のシリア人たちと同じように、彼らのゴールはドイツにたどり着くことだった。フセインは考古学の博士号を取ることを夢見ていた。ラマンはコンピューターの勉強を続けたがっていた。2人の父親のハリル氏は、2人を合法的にドイツへ行かせる方法を見つけようとしたが、身元保証人がいなければそうする術はなかった。そこで彼らは密航業者を使うことにした。

 3人は欧州大陸を進んでいた。トルコ、ギリシャ、セルビアの首都ベオグラード(Belgrade)……最後の連絡があったのはそこだ。私たちは常に携帯電話とインターネットで連絡を取り合っていた。無事ドイツに着いてくれと願いながら、彼らの進路を追う私の心臓は破裂しそうだった。8月23日、フセインと話していると電話が突然切れた。数分後、彼はかけ直してきて、息を切らしながら笑って言った。「警察にベオグラードから追い出されたんだ。奴ら、難民を逮捕しているんだ!」。2日後の8月25日、私たちはもう一度話した。それが彼らからの最後の連絡だった。

 8月27日、いつも通り朝起きてテレビのニュースをつけると、速報が目に入った。オーストリアで見つかったトラックの荷台に何十人もの難民の遺体が入っていたというニュースだった。私たちは「呪われたトラック」と名付けた。すぐにフセインに電話をかけてみたが、彼の電話はオフになっていた。ラマンのも。マスードのも。

 インターネット上で拡散されていたトラックの画像を探しまくった。フセインとマスードの姿が分かった。私は絶望した。

 マスードの兄に電話をした。彼も、分かったと言った。

「あの長髪は弟だ」と彼は言った。「友達に言ったよ。あの髪は弟のだって」

 私は耐え難い真実をのみ込んだ。だが、自分の恐怖を誰にも声に出して言うことはできなかった。私は希望を捨てずにいた。私たち全員がだ。まやかしの希望をどうにかつくり出そうとしていた。「多分、3人とも逮捕されたんだ。それで連絡が来ないんだ。多分、今はこうしているはずだ、ああしているはずだ」

 希望がついえたのは9月15日だった。ハリル氏が、トラックで亡くなった別の犠牲者の叔父で、オーストリアに住んでいる男性に連絡を取ったのだ。男性はハリル氏に、トラックの中にラマンとフセインがいたと言った。オーストリア警察が彼らの身分証と携帯電話を発見していた。

■記者として向けたカメラのレンズ、友人として向けた目

 フセインとラマンの遺体が、イラク北西部のクルド人自治区フィシュカブル(Fishkhabur)から、シリアのシマルカ(Simalka)へ抜ける国境を通ってシリア北東部に到着したとき、私は自分のカメラを持って待っていた。2人のひつぎを目にすると涙がほとばしった。ショックは計り知れず、それよりもはるかに痛みのほうが大きかった。人生であれほど泣いたことはなかっただろう。

 それでも私はカメラを回し続けた。

 息子たちが取った学位の証書をパラパラとめくり、額に入れ、自宅の壁に掛けるハリル氏を撮影し、母親のウンム・フセイン(私の義理の母だ)が、これ以上ないほど打ちひしがれてむせび泣く姿もカメラに収めた。

 この土地の風習で、葬式で子どもたちにキャンディーを配る義母の姿も撮った。義母は甘い菓子を配りながら、苦く、焼けつくような痛みを自分の中に閉じ込めていた。私も同じだった。カメラは下ろさなかったが、ずっと泣き続けていた。喪失の瞬間を再び一から味わっているようだった。

 私はジャーナリストとして自分のカメラのレンズを使っていた。だが、私の目は友人としてのものだった。フセイン、ラマン、マスードの友人としての。だから撮影中はずっと彼らの顔が浮かんでいた。あのつらい撮影の時は決して忘れないだろう。

 1年前、私たち夫婦に次男が生まれると、私たちは息子が決して会うことのない叔父の名前を取ってフセインと名付けることにした。最近、義父のハリル氏と息子が遊んでいるところを撮影した。そしてあのオーストリアのトラックの悲劇について義父と語り合った。

「孫を見るたびに息子のフセインと遊んでいるような気がするんだよ。まるで、あの子のような気がして」と、ハリル氏は言った。

「フセインがシリアを離れる前、最後に私に言った言葉は約束だったんだ。『2、3年のうちに博士号を取って、お母さんの手に渡しに来るよ』。息子たちが亡くなったという知らせは、言葉では言い表せないほどつらかった。ものすごく大きく、恐ろしい悲劇だった」

 ハリル氏は裁判の過程を追っている。死亡したのはハンガリーだという当局の判断により、裁判は同国で行われている。6月の裁判の開始に立ち会った遺族は一人もいない。

 密航業者にどんな不利な証拠があるのか、ハリル氏は知らない。だが、裁判によって一家に正義がもたらされることを願っている。

■ニュースは自分とは切り離せない

 私はシリアで2011年に民衆蜂起が始まったときから、それが内戦になった後も撮影してきた。私たちシリアにいる者が置かれているのは、普通の状況ではない。情勢が安定している「コールドゾーン」と、内戦や避難、戦闘、破壊、人間のあらゆる邪悪さに苦しめられている地域とは全く違う。戦闘地帯にいるジャーナリストは、そうしたものと自分を切り離すことはできない。すべての悲劇は、自分の住む町、母国、友人、家族、人間関係とつながっている。

■配信するニュースの現実を生きる

 シリアにいるジャーナリストは現実を記録に残しながら、まさしくその現実を生きてもいる。私たちは自分たちが苦しんでいる悲劇そのものを取材しなければならない。この内戦で何十人もの友人、知人、親戚が死んだ。爆弾で、あるいは戦闘に巻き込まれ、あるいは逃げようとして。私が知っている人々は誰もが似たような状況を体験してきている。

 私は自分が見たことを伝え、記録する仕事をしている。私自身に関係のあることもないことも。だが、自分に直接影響することを取材するのは、胸が痛い。そしてその痛みはずっと付きまとう。決して消えそうにない、喉の奥の焼けるような痛みとして。

このコラムは、シリア・カーミシュリーを拠点とするジャーナリスト、ジハード・ダーウイッシュ記者が、AFPレバノン・ベイルート支局のマヤ・ジェベイリー(Maya Gebeily)記者と執筆し、 2017年9月20日に配信された英文記事を日本語に翻訳したものです。

【翻訳編集】AFPBB News