ドイツの広場はデモや集会が行われる「言論空間」でもある。写真は「人間の尊厳」についての集会(筆者撮影)

選挙のたびに話題になるのが、投票率。日本では「若者の政治離れ」が問題視されて久しいが、昨年6月から選挙権年齢が「満20歳以上」から「満18歳以上」に引き下げられたことで、若者の政治参加を促す必要性は増している。

諸外国に目を向けると、若者による政治参加が活発な国として挙げられるのがドイツだ。言論の自由をおびやかすようなことがあると集会などがすぐに起こり、デモクラシー(民主主義)の健全性に敏感なお国柄である。日本との差は何によって生まれているのか。その1つに幼少期から受けている政治教育がある。

小学生が「デモの手順」を学校で学ぶ

政治に限らず、ドイツの教育はとにかく「喋る」ことに小学校から重点をおく。発言の有無が成績にもつながるため、堂々と意見を表明することが「ごく普通」に身に付いている。喋る中身は玉石混交だが、何でも発言できること、そしてそれが排除されないことが徹底されている。デモクラシーの基本は他者との自由な議論だが、その土壌が小学校から作られる。

また、小学校で「抗議から社会運動までの手順」を学ぶ機会もある。たとえばマンホールから異臭がするという問題があれば、「まず市役所に言う。それで解決しない場合は地元紙の『読者の手紙』へ投稿する。それでもだめなら、社会運動を行う」といった内容だ。

子供向けチャンネルのテレビ番組でも、町の公園に問題があると、子供たちが市長や行政の担当部署に掛け合うというようなことをドキュメンタリー番組で放送している。番組では最終的に改善される場合も、できない場合も紹介される。

ここで重要なのは、ドイツの小学生は身近な問題をどうやって社会的な議論に発展させるかを学んでいることだ。個人では解決できない問題があれば市が、それでも解決が難しければ州が、さらに連邦、EUへ。こういう解決の順位「補完性原理」がドイツの連邦制を支えているが、その構造の基本的なところを学ぶのである。

さらに、日本でいう中学校・高校にあたるギムナジウムでも政治教育は行われている。2017年8月25日配信の「街づくりは『役に立たない』文系教育が必要だ」 でもお伝えしたように、ギムナジウムで学ぶ倫理やドイツ語、歴史、経済、社会といった科目は、現在世界で起こっていることと関連付けて学ぶカリキュラムとなっている。


ドイツで使われている政治の教科書(筆者撮影)

そのため、中学生に相当する学年の授業でも、教員が各政党の政策をコンパクトにまとめた雑誌の記事のコピーを前もって配布し、それを参考にしながらどの政党を選ぶか考える授業もある。これは歴史の教科での話だ。

また、各自治体で大々的に行われているのが投票権を持たない18歳未満の「子供・若者選挙」だ。「18歳未満の子供と若者の選挙イニシアティブ」が行うもので、若者や子供の市民教育と政治参加の促進のために1996年から始まった。各自治体が同組織に登録して、各自の学校やスポーツクラブ、図書館などで投票を行う。9月の連邦議会選挙では21万人の「18歳未満の市民」が投票した。

筆者が住むドイツ中南部のエアランゲン市(人口約10万人)でも行われ、地元紙の販売所が投票場所になった。連日選挙報道が紙面を埋めたが、「子供・若者選挙」についても、「若者のページ」を中心に関連記事が掲載された。

現代に生きるナチス時代の反省

政治教育に力が注がれている背景には、ナチス時代の反省が大きい。「子供・若者選挙イニシアティブ」の支援組織の1つ、連邦政治教育センターなどは書籍類をはじめ、ネット上でも政治教育のための教材を多数用意している。もちろん政治的には中立だ。

また、ドイツの政治教育には、「ボイテルスバッハ・コンセンサス」という大原則が1976年に作られている。同原則をわかりやすくまとめると、「生徒が自由に発言し政治的に成熟できるよう、教員が生徒を圧倒しないこと」「実際の政治で議論があることは、そのまま授業でも扱うこと」「生徒が自分の関心や利害をもとに政治参加できるよう、能力を取得させること」といった内容だ。

若者が政治を身近なものと感じるきっかけとして、広場や歩行者ゾーンも重要な役割を果たしている。たとえば選挙期間中の週末には、各政党が市街地の歩行者天国になった道路や広場で情報ブースを設置し、党員や候補者が道行く人に政策を直接紹介し、対話を行っている。そこには過剰な握手やアピールはなく極めて自然体で、一見すると世間話をしているような雰囲気だ。また、選挙期間かどうかは別に、デモや集会もよく見かける光景だ。

いうなれば公共空間が政治的な言論空間になっているのだ。日本では公共空間での政治活動といえば、選挙カーや右翼の街宣カー、昔の学生運動の過激な映像を想像するのか、拒否感をおぼえる人も少なくない。しかし、ドイツでのそれは拡声器でがなりたてるようなことはほとんどないし、暴動のような様相にもならない。


公共空間での選挙運動では誰もが対話に加われる(筆者撮影)

また、こういうドイツの選挙運動の場で立ち止まるのは中高年が多そうに見えるが、若者が立ち止まることも少なくない。筆者の体験からいえば、パンクルックの2人連れの若者が政党のブースに足を止めて、話をしている場に居合わせたことがある。拡声器での応援演説を一方的に聞かされるよりも、「誠実な対話」があり、政治と日常が乖離していない社会の姿として印象的だった。

働き方改革が国民の政治参加を促す可能性も

ドイツでも戦後は日本と同様、学生運動が盛んな「政治の季節」があった。ある種の混乱の時期に、ドイツはこうした政治教育の方向性を作ったかたちだ。当時の若者たちは、大学卒業後、都市部の企業戦士として働く人も多かった日本に対し、ドイツではそのまま各地方で職につき、地方政治を動かした。これが可能だったのは職住近接で、労働時間も日本に比べて短かったという事情も大きかったと思われる。そう考えると、日本でも「働き方改革」で個人の可処分時間が増えれば、国民の政治参加が促される可能性もある。


このように、市民生活と政治が密接なかかわりを持つドイツだが、意外と投票率が高くないケースも見られる。筆者が住むエアランゲン市を見ると、連邦議会選は70%を超える一方で、地方選は50%を下回っているのだ。地方選が相対的に低い投票率であるのには理由がある。

連邦議会選はイデオロギーを選ぶ重要な場である一方で、地方選となると地元の具体的な問題が争点となり、それらの問題は市民投票や市民イニシアティブなどほかの解決方法も多い。そのため、2014年に行われた同市の地方選で与野党が逆転した際も、報道関係者たちから「実際のところ、党なんてあんまり関係ないし」という本音を聞くこともあった。

ドイツの場合、必ずしも投票率が民主主義の成熟度を反映しておらず、選挙は民主主義を実現する一手段にすぎないのだろう。日本も政治参加を促したければ、投票率にこだわるのではなく、まず政治へ市民がアクセスする方法を多様化することも必要かもしれない。