港区在住。遊びつくした男が、40歳で結婚を決意。

妻には、15歳年下で、世間知らずな箱入り娘を選んだ。なにも知らない彼女を「一流の女性」に育てたい。そんな願望もあった。

誰もが羨むリッチで幸せな結婚生活を送り、夫婦関係もうまくいっていたはず…だったのに。

世間を知り尽くして結婚した男と、世間を知らずに結婚してしまった女。

これは港区で実際に起こった、「立場逆転離婚」の物語。

15歳年下の妻・利奈(りな)が離婚を切り出し、夫・昌宏(まさひろ)が家を出てホテル暮らしになり1週間が過ぎた。その頃妻は、着々と離婚への準備を進めていた。




白い革張りのソファーに座り、跪く男に優雅に足を差し出す、美しい人。

女王様みたい。

東京ミッドタウン『ISETAN SALONE』の靴売り場。テキパキと店員に指示を出し、何足もの靴を試着していく藍子さんに、私はしばし見とれていた。

跪かれるのが似合う女性って、すごいな。

そんなことを思っていると藍子さんが立ち上がり、歩きながら私の方に振り返った。

「利奈ちゃん、どっちが良いと思う?」

鏡の前に立つ藍子さんの右足には、サテン生地のマノロ・ブラニク。左足には、スウェードのセルジオ・ロッシ。どちらも濃紺で10cm程のピンヒール。私は少し迷って右足を指さした。

「やっぱりそうよね。決めた。マノロにするわ」

店員にクレジットカードを渡すと、藍子さんはもう1度ソファーに座り、私にも隣に座るよう促した。

「そういえば利奈ちゃん、私のせいでルブタンが嫌いになったんだっけ?」

茶化すような口調で藍子さんが笑う。

「その話、いい加減もう忘れてもらえません?恥ずかしいから」

私も笑いながら返し、人生とはつくづく不思議で予測できないものだと思う。藍子さんと親しくなるなんて思いもよらなかった2年前のあの日。

あの時、この魅力的な年上女性の真っ赤なソールを恐れたのは、自分に自信が無く幼かったから。あの恐怖と嫌悪感が、あの頃の私の弱さとコンプレックスから生まれていたことが、今ならよくわかる。

この2年間で、私はそれを学んできた。

「急に誘ったのに付き合ってくれてありがとね。あと…」

藍子さんがこの後何を言うのか、聞かずとも分かった。

「昌宏に、私たちのこと話しちゃってごめんね。全部終わるまで内緒にするって約束してたのに。この男本当に何もわかってないんだなあってムカついちゃって思わず」

昨日藍子さんが珍しく慌てた様子で電話してきて、教えてくれた、バーでの夫とのやりとり。動揺したであろう夫の姿が想像できておかしかった。

「いいんです。藍子さんの言葉なら夫にも響いただろうし。私の言葉が響いたことはこの4年間1度もないのに、ってとこが虚しいですけどね」

自虐的に笑った私に、藍子さんの切れ長の目が悲しそうにゆがんだ。


女の敵は女…ばかりじゃない。正反対の女達


藍子さんに連れられミッドタウンからタクシーで、溜池山王の交差点近くまで移動した。

藍子さんがディナーに予約してくれていた店は、オープンしたばかりの『THE ARTISAN TABLE・DEAN & DELUCA』。

食のセレクトショップである『DEAN & DELUCA』が初めてレストラン事業を展開するということで話題になっている店だった。1階はアラカルトのみ、2階はコースメニューのみで、シェフは数か月に1回交代する予定らしい。

アラカルトで楽しむことにした私たちは、1階窓際の席に通された。

「ここ、地方の生産者さん達と密接につながっていて、面白い野菜料理も多いって聞いたから。利奈ちゃん好きかなって。お酒のセレクトも面白いね」

メニューを見ながら言った藍子さんに同意し、料理とのペアリングを意識しながら、藍子さんはシャブリを、私は洋ナシのシャンパンカクテルを最初の1杯に注文した。




そういえば藍子さんと出会った時、私はお酒を選ぶこともできない女だったな、とあの日のことを思い出す。

2年前の冬、突然現れた夫の元恋人の強引さに嫌悪感と恐怖を覚えた私は、一刻も早くその場を立ち去りたいとばかり思っていたのに。別れ際、藍子さんは私に連絡先を尋ねてきた。

何で教えなきゃいけないの。

その気持ちがおそらく顔に出ていたのだろう。藍子さんが笑い、私の返事を待たずに続けた。

「利奈ちゃんって、私の周りにはいないタイプの人だから、面白くて。もう少し色々話してみたいなって。正直思ってたより随分好印象で、好きになっちゃった。かわいいし、ね」

「バカにしてるんですか?」

思わず、たぶんその日一番の大きな声を出した私に、藍子さんはまた笑った。そして…

「私、嫌な女でしょ?何でも口に出しちゃうし、気になると行動しなきゃ気が済まなくて。未練があるとか変な言い方しちゃったけど、昌宏が私のところに戻るなんてことは絶対ないから、安心して大丈夫よ。ごめんね」

突然登場し引っ掻き回したあげく、わずか数時間後には事態を収拾しようとしている。

この人は一体何がしたかったのか。

言葉の意味も行動の意図も分からなかったが、謝られた所で不快感は消えない。ただ精一杯の強がりで睨みつける私の顔から、拒絶の表情を読み取ったのだろう。

「じゃあ、私の連絡先だけ渡しとくね。」

そう言うと、藍子さんは名刺を置きレシートを手に取った。「今日は本当にごめんね」と言い立ち去ろうとしたが、数歩で振り返った。

「まだ、何か?」

早く消えて欲しい。その一心で、私の言葉は思いのほか強くなった。そんな私に、何かを言おうとしていた彼女は一瞬ためらう様子を見せた。

もう視線を合わせるのも嫌だと思い、私がうつむいた瞬間、

「昌宏とあなたじゃ、いつか必ず辛くなると思うのよね」

予想外の言葉に、思わず顔をあげてしまった。

「昌宏って自分ではフェミニストだと思ってるけど、実は全然そうじゃないから。だからあなたが辛くなる日がくるかもしれない。あなたがそれに気が付いてしまった時に、ね」

常に笑いながら話していたそれまでとは全く違う…余裕の無い真剣な顔で彼女は言った。


嫌いな女のはずだったのに、気付けばその女を頼っていた。


「どういう…意味ですか?」

そう聞いた私に、「まあ可能性があるって話だから」と言った後

「もし昌宏と付き合った女の失敗談が聞きたくなったら、いつでも連絡してね。いい反面教師になれると思うわ」

と、今度は茶化すように笑いながら出て行った。わけがわからず、もう2度と会いたくないとすら思ったはずだったのに。

なぜか私はその名刺を持ち帰り、捨てることなく持っていた。

そして夫との間にあの事件が起こった後。途方にくれた私は、藍子さんに電話をかけてしまった。

桜の季節。藍子さんと出会ってから3ヵ月が経った頃だった。

自分から電話をかけたくせに、なぜあなたに電話をしたのかわかりません、と震える声で言った私に、藍子さんが溜息と共に言った言葉を、今でもはっきりと覚えている。

「昌宏は本能的に女を見下してるとこあるから。本人がそれに気が付いてないっていうのが、またタチが悪いの」

そして、美味しいものを食べながら二人で昌宏の悪口を言いまくろう!と明るく笑った藍子さんと、食事の約束をした。

藍子さんと初めての食事の日。

私は彼女の前でボロボロに泣き、以来私たちは、月に1度くらいのペースで会うようになった。




出会った時「嫌な女でしょ、私」と藍子さんは言っていたが、彼女を知っていくにつれて、裏表のない真っすぐな性格が私は羨ましくなった。

言いたい事を言えるのは自信の表れ。私もそうなれるだろうか?

なれるなら夫との関係も変わるかもしれない。そのためにはどうするべきなのか。私は彼女に相談を続け、学んだ。

「変わるのに遅すぎることはないし、人の成長は誰であろうと止める権利は無いから」

藍子さんは、私にそう言ってくれた。その言葉に励まされ、私は外の世界で学ぶことをはじめ、今では、一人で暮らしていけるほどの職を持つことができている。

夫は何も知らないけれど。

確かに藍子さんとは最悪の出会いだった。けれど、今では声をかけてくれた彼女に感謝している。藍子さんに出会わなければ、離婚という手段を選び人生を変えることなど選べなかっただろうから。



「黒いちぢくとなすのバルサミコマリネ」と「ムール貝のグリッロ蒸し」を二人でシェアし、メインのオマールエビが運ばれてきた後、藍子さんは言った。

「自立の為に準備を続けてきた利奈ちゃんの頑張りは知ってるけど、もう1度だけ昌宏と話してみたら?アイツの味方をするつもりはないんだけどね」

藍子さんがそんなことを言うなんて、私が離婚の相談をして以来、初めてのことだった。よっぽど昨夜の夫がかわいそうに見えたのだろうか。

「離婚を切り出す前に、私は何度も話したつもりです。そのたびに彼に丸め込まれただけだった。喧嘩にもならないんです。もう疲れちゃいました」

笑って言ったが、藍子さんは笑ってはくれなかった。そして言った。

「やっぱりあの時のことが、どうしても許せない?」

「あの時」という言葉に、胸が締め付けられる。

その痛みに未だ自分の中の傷口がふさがっていない事に気が付く。もう随分時間も過ぎたというのに。

「あの時のこと」。それは私が初めて、泣きながら、なりふりかまわず訴えた日のことだった。

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ついに、離婚の理由があきらかになる。