来館記念にサントリーホールで指揮姿を披露する加藤一二三九段(写真提供:サントリーホール)

将棋界のレジェンド「ひふみん」こと加藤一二三九段は、将棋界きってのクラシック通として有名。テレビ番組で指揮を体験する姿や、個性的な美声(?)でオペラ・アリアを披露する姿とは別に、勝負師としての真摯な生活の背景にもつねにクラシック音楽が寄り添っているようだ。

11月7〜9日にサントリーホールで来日公演を行うボストン交響楽団についてのコメントを軸に、クラシックとのなれ初めや将棋との共通項についてお話を伺った。インタビューは10月11日にサントリーホールの応接室で行った。

「レクイエム」のようなすばらしい将棋を指したい

――クラシックが本当にお好きなようですね。


熱心に聴くようになったのは42〜43歳の頃からだという(写真提供:サントリーホール)

はい、若い頃から少しは聴いていましたが、熱心に聴くようになったのは、42〜43歳の頃、中原誠名人との名人戦7番勝負を戦ったときからです。タイトル戦は1局の合間に1週間から10日ほど間があきますので、その時間をどう過ごすのかがとても大切です。私はモーツァルトの「レクイエム」や「戴冠ミサ曲」、バッハの「マタイ受難曲」などを聴きながら気持ちを盛り上げていったのです。

そのきっかけになったのが、名人戦の前日にNHKの音楽番組で聴いたクラウディオ・アバド指揮ミラノ・スカラ座によるヴェルディの「レクイエム」でした。感動した私は、目前に控えた名人戦において、勝ち負けに関係なくこの「レクイエム」のようなすばらしい将棋を指したいと思ったのです。それがクラシックにのめり込むきっかけの1つでした。


加藤九段と筆者(写真提供:サントリーホール)

――ボストン交響楽団は、以前からお好きだったと聞きました。


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小澤征爾さんが長く音楽監督を務めていらしたことから、最初に親しみを持った海外オーケストラです。そしてこれは偶然なのですが、先日俳優の石坂浩二さんとテレビでご一緒した際に音楽の話をしていましたら、なんとシャルル・ミュンシュが指揮するボストン交響楽団のCDをプレゼントしてくださったのです。ミュンシュといえば、小澤さんの前にボストン交響楽団の黄金時代を築き上げた大指揮者ですからね。これはうれしかったです。今回の来日公演では、マーラーの交響曲第1番「巨人」を聴くのが楽しみです。若い音楽監督アンドリス・ネルソンスがどのような指揮者なのかにもとても興味がありますね。

――小澤征爾さんとの最後の来日公演から18年ぶりの来日ですからね。名門オーケストラの底力を体験するのが楽しみです。さて、将棋とクラシックに共通する要素は感じますか。

強く感じますね。対局のときの緊張感とコンサートの緊張感はとても似ていると思います。将棋においては、1手でまったく景色が変わる中、つねに最良の手を考えながら指していくわけです。そこには面白さと楽しさと深さがありますが、音楽もまったく同様だと思います。

対局の前にはバッハやモーツァルトを聴きますが、バッハを聴いているとなぜか、「こうしてはいられない、何かをしなければならない」という気にさせられます。ところがモーツァルトの音楽を聴くと、明日はこのモーツァルトの名曲のようなすばらしい将棋が指せたらいいなあと自然に思えてくるのです。美術館で絵を見ることも多いのですが、「この名画のような将棋を指したい」という気持ちにはなりません。それが相性であり、音楽の持つ力でもあるのでしょうね。

「大ミサ曲」が聞こえてくると勝てる

――興味深いお話ですね。そういえば、以前拝見した文章の中に、「対局で勝ちが見えてくるとモーツァルトの『大ミサ曲』が聞こえてくる」というのがありましたが、それも今のお話につながることでしょうか。

はい、モーツァルトの「大ミサ曲」が聞こえてくると勝てるのです(笑)。予感というのでしょうか、おそらく心の状態が絶好調なのだと思います。そこで浮かんでくるのが、なぜかモーツァルトの「大ミサ曲」なのです。作曲家たちは深い考えのもとに音楽を生み出しているのでしょうし、宗教曲の場合には当然宗教への深い理解というものがあって作曲しているのでしょう。

イベントでたまたまベートーヴェンの「運命」を指揮したときに感じたのは、ベートーヴェンも私もカトリック教徒であるという共通点でした。希望を持つという共通点でしょうね。モーツァルトには元気を感じます。作曲は元気でないとできないと語っていたことを本で読みました。

私の将棋でいえば、これまでに2505回の対局を積み重ねてきたのですが、いかなる場合も元気で戦ってきたわけです。対局の前に「負けるかもしれない」と思ったことはただの1度もありません。それは若い頃から一貫していて、当時の名人に挑戦する際にもありませんでした。今思うと、2505の対局は、音楽に当てはめてみると2505回のコンサートのようにも感じられます。

――将棋好きとして知られる指揮者の小林研一郎さん(アマチュア最高峰のアマ五段)は記憶力がすごくて、「第九」公演のときに、初顔合わせの合唱団員全員の名前をその場で覚えてしまうそうです。それを証明するために、ばらばらに並びなおさせた団員の名前をすべて完璧に当てるそうです。これは音楽家が楽譜を記憶することや棋士の記憶力にも共通することではないでしょうか。


棋譜を見れば50年前の対局でも思い出せると語る加藤九段(写真提供:サントリーホール)

ひやー、それはすごいですねえ。将棋には棋譜というものがあります。その棋譜を見れば50年前の対局のときに考えた内容でも95%程度は思い出せます。今でも棋譜さえあれば、ここはこうした、ここはこうすればいちばんいいんだといったことや、1時間以上考えたことや考えた内容まで思い出せます。対局の場所や状況も同様に思い出せます。それは音楽家が楽譜を見てさまざまなことを思い出すのと似ているかもしれませんね。

印象的なのは、ピアニストのスヴャトスラフ・リヒテルが「暗譜で演奏するために晩年はレパートリーを広げることが難しかった」と語っていたことです。これは推察ですが、もし楽譜を見て演奏することができたならば、レパートリーを広げてもっと多くの曲を弾くことができたのかもしれないわけです。あの巨匠リヒテルにしてもそうなのかと思うと感動しましたね。


名指揮者の風格!(写真提供:サントリーホール)

――話は変わりますが、先生はメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」がお好きだと伺っています。

「スコットランド」は大好きで5種類ぐらいのCDを聴いていますが、いちばん感動するのは深々とした演奏を聞かせてくれるヘルベルト・フォン・カラヤン盤ですね。言い伝えによると、スコットランドを旅したメンデルスゾーンが古い教会に入った際にメロディが浮かんできて、その後10年をかけてこの名曲を完成させたということです。教会でのインスピレーションと10年の歳月に心惹かれますね。

私は42歳のときに名人になったのですが、「名人になれる!」という強い確信を持ったのがほぼ10年前でした。そして精進の結果名人になれたのは9年後です。メンデルスゾーンは10年かけて「スコットランド」を作り、私は9年かけて名人になったというわけです(笑)。

「アマデウス」はすばらしい

――加藤九段の勝利です。メンデルスゾーンに勝ちましたね(笑)。ほかに思い入れの強い作曲家は誰でしょうか。

モーツァルトは昔からよく聴いていますし、映画『アマデウス』も大好きで何度も観ています。この映画によってこれまで知らなかったモーツァルトの作品をたくさん知ることができました。たとえば「ピアノ協奏曲の第22番」です。以前、池辺晋一郎さんの番組に出演させていただいた際に22番が好きだという話をしたところ、池辺さんが「この曲を好きな人は変わっていますし、少ないですよ」とおっしゃいました。


スランプに陥ったときにモーツァルトを聴いて救われた(写真提供:サントリーホール)

確かに有名な21番と23番の間に挟まれた影の薄い曲ではありますけれど、幸福感に満ちた作品だと思いますね。『アマデウス』の中ではモーツァルトが皇帝の御前演奏でこの曲を弾いている姿を妻のコンスタンツェが幸せそうに見つめているわけです。おそらく映画の中で最高に幸せな時期の2人の姿を描いているんじゃないでしょうか。

その22番は、先ほど話に出たリヒテルのCDでよく聴いています。リヒテルも変わり者で幸福なものが好きだったのかもしれませんね(笑)。そういえば、20連敗のスランプに陥ったときに聴いて救われたのもモーツァルトでした。対局の前日にイツァーク・パールマンが演奏する「ヴァイオリン協奏曲第3番」を聴いて連敗から脱したのです。

それにしても『アマデウス』はすばらしい。あの映画が封切られたときに棋士たちの間でもかなり話題になっていました。つまり自分はあの映画の中のモ-ツァルトとサリエリのどっちかという話題ですね。天才か秀才かという意味です。

藤井四段は天才と秀才のどっちか

――それは興味深いですね。たとえば今話題の藤井聡太四段は加藤九段から見てどのような位置づけになるのでしょうか。

藤井さんは今のところ秀才ですね。彼が天才かどうかといったことは20歳前後になったときにわかります。彼が20歳くらいになったときに、秀才のままなのか天才になったのかがはっきりわかります。モーツァルトかサリエリかですね。ちなみに私は18歳のときに「神武このかたの天才」と言われたわけですね(笑)。


名棋士はだいたい20歳前後に大仕事をする(写真提供:サントリーホール)

名棋士というのは、だいたい20歳前後に大仕事をしています。藤井さんは人柄がとてもいいし、ある意味余裕もありますね。私は対局中に相手の立場から戦局を眺めるいわゆる「ひふみんアイ」を行うのですが、藤井さんは少し大回りの「ひふみんアイ」をやってます。あれは、相手がいるときに遠慮して少し遠くから見ているのです。

私の場合は相手のいないときに相手の立場から見るので少し違いますが、これまでプロ棋士の中で「ひふみんアイ」を行ったのは藤井さんだけです。「ひふみんアイ」の継承者ですね。これまでの経験からいえば、100局に1回くらいは効果があるといえそうです。発想の転換であると同時に執着心でもありますね。そこからいいアイデアが生まれる可能性もあるわけです。

――なるほど藤井四段、楽しみです。「ひふみんアイ」と同時に、ぜひ「クラシック愛」も継承していただけるようにお願いします。勝利のためにはモーツァルトの「大ミサ曲」がいいとかですね。

おお、おお、それはいいですね、今度ぜひそうしましょう(笑)。