文/矢島裕紀彦

今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「ああ、東京の、わが家の者たちよ、俺ばかり毎日うまいもの食っててすまんなあ」
--古川緑波

古川緑波(ふるかわ・ろっぱ)は、明治36年(1903)東京で生まれた。男爵・貴族院議員の加藤照麿の六男。本名は郁郎。古川家の養子となり苗字が変わった。

少年時代から映画に没頭。早大英文科在学中に映画雑誌の編集に携わり、無声映画の弁士だった徳川夢声との出会いがきっかけで舞台に立つようになった。

声帯模写(ものまね)で売り出し、やがて喜劇俳優となり、「笑の王国」「ロッパ一座」で人気者となった。傍ら、映画にも出演し、エノケン(榎本健一)とともに「昭和の喜劇王」と呼ばれた。

舞台を降りれば、食いしん坊でウイスキーが大好きだった。

古川緑波は膨大な日記を残したことでも知られる。これは昭和史の記録としても貴重なものだが、大スターだっただけに、庶民の暮らしとかけ離れたところも垣間見える。たとえば、太平洋戦争最中の昭和19年(1944)の日記から拾ってみよう。

「夜は、炬燵で、取っときの、ジョニーウォーカーの黒を抜き、牛肉あり、機嫌よし」(1月1日)
「夜、宿では、一羽三十五円で買わせた鶏の、すき焼、サントリー七年。座員三人と共に、ほろほろ酔」(2月2日)
「今日は芦屋のY氏に招待され、夕刻より神戸へ。(略)今夜は特別に、うまいものを揃えて呉れたが、量が少いので辛い。Y氏、ウィスキーの壜を出し、『こんなのよろしいやろ思いまして』と言う。見れば、何と、オールドパァ」(7月24日)

世間一般の食糧難をすり抜けて、上等の肴でウイスキーを一献傾けている様子が窺えるのである。まして、映画のロケなどで地方に行けば、食べ物も酒もさらにふんだんに供され、ついには掲出のように、家族に詫びる一文を綴ることになる。

緑波のこの日記は、のちに『悲食記』と名づけられ刊行された。一般庶民とは異なる次元であったとはいえ、それでも思うときに思うさま旨いものを食べられない日々は、緑波にとって「悲しみ」以外のなにものでもなかったのだろう。

そこには、もちろん、戦争の悲惨もしみこんでいる。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。