春香が、24歳のとき。

心から愛していた男が、ある日忽然と姿を消した。

その日から、春香の時計の針は止まったまま。食事会に行っても新しい恋人が出来ても、まとわりつくのはかつて愛した男の記憶。

過去の記憶という呪縛から逃れることのない女は、最後に幸せを掴み取る事ができるのか?

最愛の恋人・祐也が姿を消してから、祐也への未練を吹っ切れずにいた春香に、ついに彼氏ができた。

新恋人・シゲとの温度差に早くも不安を抱きつつも、3年ぶりにできた彼氏との誕生日を迎え、春香は浮き足立っていた。




3年ぶりの、恋人と過ごす誕生日。春香は幸せな気分に酔いしれていた。

「はるちゃん、お誕生日おめでとう」

銀座『スリオラ』で、シゲとモダンスペイン料理を堪能しながら、ふと春香はあることに気がついた。

シゲが、とても疲れているのだ。話をしていても心なしか少し上の空だし、目の下のクマも気になる。

-仕事、本当に忙しいんだな…。こんなに疲れてるのに今日ちゃんとお祝いしてくれて、感謝しなくっちゃ。

途端に申し訳ない気持ちでいっぱいになって、優しくシゲに語りかける。

「シゲ、疲れた顔してる。仕事、大変なんだね」

するとシゲは、きょとんとした表情で春香を見つめ返した。

「え、そんなことないよ。昨日は残業もなかったし、早く帰ったよ。あ、もしかしてクマ出来てる?昨日ネットフリックスで海外ドラマ見始めたら止まらなくて、朝まで徹夜で見ちゃってさ、今日は一日中寝てたよ」

「そうなんだ…」

シゲは、あはは、と笑っているが、春香はもやもやとした気持ちになった。

だったら、連絡をくれても良かったのに。誕生日だというのに、日付が変わっても16時までなんの音沙汰もなかったことに、春香は不満を抱いていた。

自分の誕生日は、海外ドラマ以下なのか。そう思ったらなんだか急に虚しくなった。

食事を終え、2軒目の『バー アンセム』に移動してからも、シゲはジントニックを飲みながら、今ハマっているというドラマの話に変わらず夢中だ。

「でさ、そのドラマがほんとに面白くて、はるちゃんも絶対見た方がいいよ。あ、ネットフリックスは入ってる?」

「…ううん、私はHulu派だから」

適当にシゲの話をかわしていたが、春香の心は晴れないままだ。


素直な想いを伝える春香。誕生日はロマンティックなフィナーレを迎えるのか?


しかしシゲは一通り自分の話を終えると、春香を愛おしそうに見つめた。

「実は高校時代から、はるちゃんのこと、可愛いって思ってたんだ。でもあの頃はあまりに世界が違ったから、とてもじゃないけど声かけられなかった」

いつの間にか2人の間には、ふわりとした甘い空気が漂っている。




-私もちょっと甘えて、ワガママ言ってもいいかな…?

春香は思い切って、自分の素直な気持ちをシゲに伝えることにした。

「昨日の夜、早く帰ってたなら、電話してくれたら嬉しかったなあ…むしろ、会いに来てくれてもよかったのに」

はにかみながら、春香は続ける。

「私、誕生日は一番にシゲの声が聞きたかったの。0時に電話がなくて、すごく寂しかった。それに今日も夜だけじゃなくって、お互いに1日空いてたなら、朝からゆっくり会いたかったし…」

そこまで言ったところで顔を上げて、ぎょっとした。シゲが先ほどとは別人のようにむすっとしており、明らかに不機嫌そうなのだ。

春香は慌てて尋ねた。

「え?シゲ、怒った?」

「いや、そうじゃないけど…なんていうか…」

そしてシゲはふうっと小さなため息をつくと、冷ややかな口調で言った。

「そういうの、ちょっと面倒くさいな、と思って」

シゲの一言に、春香は思わず言葉を失う。ちょうどそのとき、カウンターに置いた携帯電話の画面の日付が翌日に変わるのが見えた。

-ああ…楽しいはずの誕生日が終わっていく…。

こうして、春香の27歳のバースデーは、シゲの「面倒くさい」の一言で見事に幕を閉じたのだった。


恋愛の温度差


家までの帰り道、春香が泣きついたのは、もちろん親友の恵子だ。

「もしもし。春香、幸せなお誕生日は過ごせた?」

受話器の向こうから、恵子の呑気な声が聞こえる。

「恵子…私って、面倒臭い女…?」

恵子は、どんよりとした春香の第一声に驚いたようだったが、春香が事の顛末を語ると、優しい口調でなだめてくれた。

「女にとって誕生日はいくつになっても特別な1日だから、気持ちはすごくわかるけど。でもシゲとも付き合ってまだ3週間でしょ?春香は初めから、素を出そうとしすぎるのよ」

「でも、自分を偽って付き合ったって意味ないもん…」

弱々しく反論する春香を、恵子は穏やかに諭した。

「話を聞いている限り、シゲって恋愛の優先順位が低そうなタイプだし、春香も少し気持ちを抑えて、2人の温度が同じになるまでゆっくり進めたらいいじゃない」

彼女の言うことはもっともだと思う。だけど、会いたいのにそれを我慢して、好きなのに気持ちを抑える。そんなふうに無理をしながら付き合う恋は、幸せなのだろうか。

春香の頭の中を疑問がぐるぐると渦巻いていた。


シゲとうまくいかずに悩む春香。そんな矢先に街で見かけたのは…?


宙ぶらりんに終わった恋


家に帰った春香は、高校の卒業アルバムをクローゼットの奥から取り出して、眺めてみる。




眼鏡をかけたガリ勉時代のシゲ。そしてお気楽な女子高生だった春香。2人の写真を交互に見比べながら、春香は大きく肩を落とした。

やっぱり、自分とシゲではそもそもジャンルが違いすぎるし、恋愛の温度もリズムも、何もかもが合わない。

-祐也の時は、こんなんじゃなかったのに…。

気がつくと、また祐也のことを考えている。

新しい恋をすれば、過去の恋愛なんてどうでもよくなるかと思っていた。男を忘れるには次の男、それが通説のはずなのに、シゲと付き合ったら逆に祐也の居心地の良さを思い出して、余計に祐也のことが恋しくなってしまった。

結局、どんなに新しい恋をしたって、祐也との過去にきちんと蹴りをつけない以上、永久に前には進めない。

-宙ぶらりんな形で恋が終わったせいだわ…。

春香は卒業アルバムを閉じるとベッドに身を投げ出して、ぼんやりと考える。

もう、やり直せないことはわかってる。でもお願いだから、もう一度だけ目の前に現れて、そして冷たくきっぱりと言って欲しい。

姿を消したのは、好きじゃなくなったからなんだと。その一言が聞ければ、今度こそ本当に諦めがつくから。

そして春香は、小さな声で呟いた。

「祐也、一体どこに行ってしまったの…?」



誕生日のディナーの後も、シゲは春香のLINEに短い返信を送っただけだった。さらに今日も、自分から連絡をしてくる気配は一向にない。

そして春香は、シゲの「面倒くさい」発言を思い返してすっかり気が滅入っていた。

-今日は、女同士で思う存分シュラスコでも食べて、元気だそう…。

今日は、恵子が企画してくれた春香の誕生日会の日だ。

待ち合わせをした『バルバッコア 六本木ヒルズ店』の予約時間よりもずいぶん早く六本木ヒルズに到着した春香は、エストネーションで時間を潰すことにした。

秋物の洋服を夢中になって眺めていたとき、はっとした。今、確かに知っている香りが漂ってきたのだ。

-祐也がつけていた香水の香りと同じだ…。

咄嗟に店内を見回したが、すぐに我に返る。

-私、馬鹿みたい…。この世の中に同じ香水つけてる人が何人いると思ってんだろう。祐也がいるわけない。

そして歩き出した瞬間、前方にいる一人の男の後ろ姿に、目が釘付けになった。

見覚えのある後ろ姿。祐也に似ている。ふわふわの癖毛に、大きな背中。背格好も祐也そのものだ。

気がつくと、香水の香りに誘われるように、春香はふらふらと歩き出していた。店の外へと足早に立ち去る男の背中を追いかけて。

嗅覚は、残酷だ。

どんなに彼との思い出を記憶から消そうとあがいても、嗅覚だけは決して忘れようとしないのだ。あの甘ったるくて濃厚な瞬間に溺れ、震えた心を。

▶Next:10月25日 水曜更新予定
祐也はついに戻ってきたのか?春香が追いかけた男の正体は?