純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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カントと言えば、哲学最大の大物。でも、なにをした? 答えは3つ。
1 経験主義と合理主義を一本化した
2 批判哲学を立てた
3 実践哲学を開いた

 まず、経験主義と合理主義。ルネサンス以降の近代において、実例を多く集め、比較対照することでこそ確かな知を確立できる、という《経験主義》と、原理原則から論理的に敷衍して行った方がいい、という《合理主義》と、二つの戦略が対立。あれこれ言い争った。経験主義から言わせれば、論理そのものが過去の経験の蓄積の結果であって、そんなに絶対的なものではない、と言うし、合理主義の方も、実例なんて言ったって、最初から錯覚や誤差だらけで、そんなもの、最初から話にならない、と言う。

 これらに対し、カントは、認識や推論というのは、実例を論理に取り込むことだ、とし、その論理は、実例の蓄積の結果ではなく、どんな実例よりも先にあって、なんの実例もまだ含んでいない純粋な主観そのものの枠組だ、とした。

 たとえば、時空間。すべてのモノは、それぞれ、それの「いまここ」にあるだけ。それを、主観が、〈ここ・そこ・あそこ〉〈さっき・いま・あとで〉に位置づける。そもそも、すべての感覚は、主観の「いまここ」の話。網膜が刺激された、鼓膜が振動した、というだけ。しかし、主観は、それに原因を想定し、自分の外側の時空間に対象として位置づける。ぶぉーん、と聞こえたら、さっき、あそこを車が通った、というふうに。

 つまり、時空間は、世界の側に絶対的に存在するのではなく、主観が受けた刺激を外界の原因として書き戻すために主観が持っている、主観の中の主観的な座標軸。私にとっての〈ここ・そこ・あそこ〉と、あなたにとっての〈ここ・そこ・あそこ〉は、まったく別のもの。まして、〈さっき・いま・あとで〉も、私にとってと、百年前の人にとって、とは、まったく別の座標軸。おまけに、その単位も違う。子供の一日は、いろいろできるほど長いが、大人の一日は、あっという間。〈あとで〉というのも、ひとによって、今日中なのか、今週中なのか、そのうちなのか。

同様に、〈すべての〉とか、〈この〉とか、〈とある〉とか、〈である〉とか、〈でない〉とか、〈なのか〉とか、〈かもしれない〉とか、〈にちがいない〉とか、などなども、実は、対象の側の概念ではない。これがまさに〈すべて〉だ、などというものは実在しない。主観がかってに主観的に認識に対象を取り込むためだけの枠組。

 推論というのも、概念そのものを分析してわかるか、主観上で総合してわかるか、のどちらか。犬は動物だ、というのは、動物でなければ犬でないので、実際の犬を調べてみるまでもない。一方、さっき山田さんは会議室にいた、というのは、〈山田さん〉の認識と〈会議室〉の認識が、主観の時空間で重なっているからこそ。実物の山田さんと実物の会議室とが主観を介してこそ繋がる。

 ようするに、合理主義というのは、それそのものは主観的で空っぽ。主観的な経験がなされて、その経験の原因が主観の時空間に書き戻されてこそ、そこから合理的な推論が発動する。経験無しに合理主義だけではなにも推論できないし、逆に、主観の合理主義的な枠組無しには、なにも経験することができない。

 つぎにここから、カントは、批判哲学を立てる。「批判」というのは、ただ非難するというのではなく、どれだけで、どれ以上ではないのか、見極める、ということ。これまで、哲学は、自分とは、世界とは、神とは、とか、好き勝手に語ってきた。しかし、カントに言わせれば、〈自分〉とか〈世界〉とか〈神〉とは、時空間や〈すべて〉〈かもしれない〉などと同様の純粋概念であって、さまざまな経験を整理するための枠組としては使えても、それが時空間の中にあるモノであるかのように扱うのは、「理性の越権」。言わば、これらは地平線であって、それに近づけば、逃げ水のようにさらに、その向こうに行ってしまって、けっしてだれもその向こう側からそれをまとめて認識することはできない。つまり、自分や世界や神について、あれこれ語っても、ぜんぶ妄想の与太話で、時間のムダ。そんなものについて認識する能力を、人間は、はなから持ち合わせていない。

 この批判哲学は、哲学そのものの限界を明らかにした、というだけでなく、不可能であるということが論証される、ということでも画期的だった。これまで、人間は、なにかできないことがあると、どうにかしてできる方法を探そうとしてきた。しかし、ここにおいて、できる方法が絶対に存在しえない、ということがある、ということが、明らかになり、大きな発想の転換がもたらされた。たとえば、五次以上の方程式には、絶対に解の公式が存在しえない。これは、カントのすぐ後、方程式を解きうるための条件を綿密に考察していくことによって、アーベルやガロアによって証明された。

 しかし、第三に、カントは、実践哲学を開く。人間は、物事を認識するだけの主観的な存在ではなく、手足の付いた半身はモノそのものの世界に埋め込まれている。〈自分〉が何であるか、など、考えてわかることではない。だが、わかることではないからこそ、自分でなんとでもできる。同様に、〈世界〉が何であるか、など、考えてわかることではない。だが、だからこそ、なんとでもできるのだ。つまり、認識に限界があるからこそ、その向こうに自由が開けている。これまでどうだった、という事実は、これからどうなるか、を決定しない。なんとでもなりうるのだ。

 実際、カントの時代、国家というものは、王がいて貴族がいて諸民が、と言われていたが、フランス革命で、王のいない国ができた。まして新大陸のアパラチヤ山脈の西には、いまだ道も町もない「国」が地平線の向こうに広がっていた。それまで、農民の子は農民の子だったが、貴族にも官僚にも、銀行家にも工場主にもなりうる時代が開けていた。

 でも、どうやって? 自分が努力すれば、世界が実現するのか。カントは、自分の努力が世界の実現をもたらすのを保証するかどうか知ることは、人間の認識の能力を超える、と言う。しかし、カントは、だからこそ、信じるのだ、神の存在と慈悲を要請するのだ、と言う。自分がどうするか、世界をどうしたいか、は、考えて理屈でわかることではない。認識を越える地平線のはるかかなたに、目標を思い定め、それへ向かって、自分を信じ、世界を信じ、神を信じる。認識に限界があるからこそ、そこに信じて自分を賭ける余地がある。

 かくして、哲学は、カント以降、自分とは、世界とは、神とは、などという、むだな妄想のおしゃべりと言い争いを止め、実践哲学として、何をすべきか、を問うようになる。もちろん、それに正解など無い。だが、正解が無いからこそ、自由がある。つまり、そこでは、ただ自分だけが理由になる。そして、自分で結果の責任を引き受ける。

 このように、カントは、近代の経験主義と合理主義の対立を止揚しただけでなく、哲学数千年の無駄話を批判哲学で打ち止めにして、なにをすべきか、を問うという、新たな実践哲学の新大陸を切り開いた。これらのことを知れば、なぜカントが哲学で最大の大物とされるかも、よくわかるだろう。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)