『アーダ〔新訳版〕 上』ウラジーミル ナボコフ 早川書房

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『アーダ』の邦訳は、かつて早川書房《ハヤカワ・リテラチャー》に斎藤数衛訳があったが、こんかい日本を代表するナボコフ研究家・若島正の手によって新訳がなされた。これは歪んだ家族の物語であり、衒学的なエロチカであり、プルースト『失われた時を求めて』のナボコフ流変奏だが、同時にオルタナティヴ・ヒストリー(別な世界線)を扱った小説でもある。Webで公開されている浩瀚なThe Encyclopedia of Science Fictionの「Alternate History」の項でも、フィリップ・ロス『プロット・アゲンスト・アメリカ』やマイケル・シェイボン『ユダヤ警官同盟』などと並んで言及されている。

 ナボコフのことだから、平然とその世界のなかから----しかも非常に微視的なやりかたで----語り進めるので、読者は歴史の全体像を容易につかむことはできないのだが、さいわい若島さんが「解説」で見取り図を提示してくれている。引用しよう。


『アーダ』の小説世界は、「アンチテラ」および「テラ」と呼ばれる双子惑星(もしくは兄妹惑星)からできている。物語中の出来事のほとんどが起こるのはアンチテラにおいてであり、アクワをはじめとして、アンチテラの住人のうち狂気に陥った者だけが、妄想として「麗しのテラ」の実在を信じている。しかし、この小説を読めばわかるように、テラは我々が住むいわゆる現実世界にほぼ相当する地理や歴史を持っていて、その観点から見れば、アンチテラのほうが架空の世界である。
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 われわれの歴史では、13世紀にロシアはモンゴル帝国の襲撃を受け、その支配下に置かれた。これがいわゆる「タタールの軛」と呼ばれるもので、ロシアはその軛を脱するのに16世紀頃までかかった。しかし、この小説におけるアンチテラではタタールの支配が延々と続いていて、そのために大量のロシア人が北米大陸へ移民を余儀なくされた。北極圏からアメリカ本土へと広がるその地域は「エストティ」と呼ばれ、「アメロシア」合衆国の一部を成している。また、ここでは1815年に英国がフランスを合併したため、フランス人の移民も流れ込み、合衆国の内部にフランス領を形成した。


 ここで重要なのは、テラ(われわれの歴史=こちらの世界)が観測で確認された、あるいは天文学の理論によって示された実在ではなく、ひとびとの妄想としてあらわれる点だ。この小説の主人公ヴァン・ヴィーンは心理学者で、被験者とのやりとりを通じてテラにふれる。しかも、まったくの妄想と見なしているのではなく、ユングがいった「集合的無意識」(そういう言葉は『アーダ』では用いられていないが)のようなものとして理解しているふしがある。ちなみに、ヴァンはフロイト流の精神分析(蛇はペニスの象徴という式の)を心底バカにしている。これはナボコフ自身の考えでもあるだろう。彼はメタファー探しのような「深読み」の文学論にうんざりしていたのである。

 狂気による妄想ばかりでなく、人間の記憶じたいがアンチテラにいてテラを思うようなものなのではないか。本当に大切な細部の印象はくっきりとしているが、状況や脈絡といった背景がぼやけている。

『アーダ』という小説全体が、そうした記憶をたどって記されている。ヴァンと彼の恋人アーダの幼少期から順をおって語り進むのだが、作中の「いま」にときおり、それを記している「現在」が陥入する。九四歳になったヴァンが顔を出す。九二歳のアーダが口を挟む。

 ヴァンとアーダは戸籍上は従兄妹----しかも父親同士が従兄弟で母親同士が姉妹という二重の----なのだが、生物学的にいえば兄妹なのだ。この倒錯した関係がどうやって構成されたかは、作中に繰り返し仄めかされてる。いや、仄めかしというレベルを超えて明示されているといってもいいのだが、ナボコフの屈曲した言いまわしのせいで、ちょっと集中しないと汲み取りにくい。たとえば、この部分はヴァンの父親について語られた部分ではないのだが、〔鹿みたいに角を生やしたお人好しの司令官〕という表現がふいにでてくる。「えっ、バイキングの兜みたいなのを被っているの?」と思うかもしれないが、ここが家族の血縁について語っている場面のなかにポンと置かれているといえば、どういうことかおわかりになるだろう。

 屈曲した言いまわしが頻出するのは、ヴァンとアーダが早熟な読書家でもあるせいだ。読んだ本の話題ばかりではなく、些細な日常会話のなかにも過去の作品からの引用や登場人物の名前が織りこまれる。こんなふうにしゃべるやつはいないだろうと呆れるほどだが、このふたりはアンチテラに暮らす良家の子女なので、異次元的な教養があるのだ。まあ、ありていにいえばナボコフの小さな分身だ。アーダにいたっては蝶の飼育が趣味という点でも作者と共通している(ナボコフは蝶の研究家でもあった)。

 人生のちょっとした局面における鮮明な印象、読んだ書物の細部の記憶、それらがタペストリーのように広がっていく。じつは、ヴァンとアーダの台詞だけではなく、地の文のなかにも先行作品のパロディやアリュージョンが織りこまれている。ナボコフ研究家にとってはそれらをひとつひとつ解きあかしていくのも愉しみなのだろう。

 しかし、私たちはそこまでしなくてもいい。重要なのは、過去のなかにある断片的な情景や印象が、人生全体と照応して豊かに響く、その実感だ。人生は因果の連鎖で直線的に形成されているのではない。おびただしい記憶が入り組んで広がっているのだ。それは人間心理や描写技法の問題ではなく、時間そのものの特質だ。

『アーダ』がオルタナティヴ・ヒストリーを扱いながら、伝統的なSFと大きく風合いが異なっているのは、こうした時間観による。機械的な時間ではなく、まさに生きゆく時間である。

(牧眞司)