“素っ裸の少年魂”がここにある 『動くな、死ね、甦れ!』が照射するカネフスキー映画の真相

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 “素っ裸の少年魂”。

 『動くな、死ね、甦れ!』に日本人宝石商役で出演した演出家清水柳一氏は、DVD=BOX所収のパンフレットに「カネフスキー監督に“殺られる”まで」と銘打った素敵な愛に溢れた回想記を寄稿されている。そこで監督ヴィターリ・カネフスキーを評して差し出されたのが、冒頭に掲げた鮮やかな一言だ。

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 素っ裸の少年魂! それは実際、理不尽な投獄をかいくぐり31歳から39歳までという溌剌とした人生の実りを謳歌すべき8年間を棒に振った監督の、それでも萎れぬ人となりのみならず、その彼が54歳でついに放った渾身の快作『動くな、死ね、甦れ!』の神髄をもみごとに射抜いてしまっている。

 思い込んだら突進する。がむしゃらが微笑ましく、やがて涙ぐましくもある掛け値なしの在り方。そんな磁力は少年魂の化身パーヴェル・ナザーロフ――カネフスキーの分身としてその少年時代の記憶を銀幕に刻み付けるしなやかな肉体と心を得たことで、いっそう忘れ難いものとなる。

 シベリア鉄道の支線が敷かれた極東の炭鉱と収容所の町スーチャン。雪がとけてぬかるみだらけの道をものともせず12歳の少年ワレルカ/ナザーロフはいつも前のめりで走っている。服が汚れると母は小言をいうけれど、お構いなしで走る彼はまた、目を真ん丸に見開いて通りに行き交う人人人をみつめている。綿入れの防寒服の両袖が指先を隠してぶかぶかぶかしてしまうほどちっちゃな体に負けん気を全開にして悪童たちに突っかかっては痛い目にあう。あっても懲りない。怯まない。その闘志が鈍色の冬に射し込む儚くも明るい一筋の春の兆しのように凍えた心を融かしていく。

 幼なじみの相棒ガリーヤ/ディナーラ・ドルカーロワがお茶を売って稼ぐのを見れば、よしっと思い立ち、さっそく家からやかんを抱えて走り出す。こっちのお茶は泉の水でいれた絶品と胸をそらして対抗する。そうやって稼いだ金を「盗んだでしょう」と母からあらぬ疑いをかけられれば声を限りに抗議する。やっと手に入れたスケートをあっけなく強奪されたら、勇気をふるい起して奪還に行く。いつだって全身全霊で生きている。

 ワレルカが“事件”とぶつかる度にすべてお見通しのガリーヤが助け舟をだしてくれる。

 恋というには淡すぎるふたりの間にある想い。それは、競争心を芯にしてかけっこや言い合いやらでなぜか相手を負かしたくなるという奇妙な反発のエネルギーにこそ励まされてもいるようで、要はなんだか気になる、無視できない、だから喧嘩しながらいつも一緒という微笑ましさに包まれて綴られていく。

 スカーフで縁取った卵形の顔に超然をクールに浮かべ薄く笑っているガリーヤは、ワレルカと同い年なのにもうとっくの昔から気づいていたわと言いたげな大人びた目で思うに任せぬ世界の仕組を睨んでいる。だから自然とワレルカに対しては、姉みたいな上から目線になっている。塩田明彦監督作『どこまでもいこう』の一輪車少女たちの「男子ってばかだね」と小気味よく共振してもいるような彼女は、この年頃の男女の力関係を懐かしく思い起こさせてもくれるだろう。

 続編『ひとりで生きる』で15歳になったワレルカとガリーヤの妹ワーリャとが紡ぐ絆と比べると、ここにあるのはいかにも幼い初恋未然の初恋への郷愁ともいいたいようなもの。つんと鼻の奥を突く切ない痛みのもとには、少女が少年と分かち合う”少年魂”こそがある。その勇ましさ、凛々しさ、清潔さにうっとりと見惚れてしまう。

 面白いのはワレルカの守護天使然としたガリーヤの“出現”を、映画がみごとに確信犯的に因果関係を無視した唐突さで差し出していることだ。

 ほんの悪戯のつもりがあっけなく列車を転覆させてしまったり、挙句にウラジオストックへと逃亡して強盗団に加わったり――。ワレルカ/カネフスキー少年の冒険もまた、思い出と化したそれの鮮明な部分だけが掬われていく。

 ふっ、ふっ、ふっと水底から浮き上がってくるホオズキの艶やかな粒にも似た思い出のひとつひとつを串刺しにするようなその描き方にカネフスキーの映画の真相が照射される。

 起承転結を端正に整えた物語であるよりは自身の記憶の再現の場としての映画。あるいはフィクション/記録の境を無化した魂の真実の置き場所としての映画。カネフスキー独自の領域と語り口がそこに拓かれていく。

 例えば、町はずれで働く母を迎えに行った帰り、薄く霧の流れる夜を往くうちにワレルカだけがなぜかひとり脇道にそれ、じっと何かを見上げるその頬に、モノクロ映画がまざまざとほてった赤みを映しだす場面にしてもそうだろう。

 映画は少年の眼差しの先に炎に包まれた処刑台の日本兵を切り取る。五木の子守唄の調べが感傷を断ち切ってとつとつと、だからいっそう悲しく聞こえてくる。そうやって少年の目に耳に染みついた記憶の光景を、歌を、映画は無駄口叩かず手渡しにする。余計な起承転結が省かれて、思い出は見る者の胸をも染め、静かに深くそれぞれの記憶となって沈潜していく。

 収容所の日本兵が歌う「南国土佐を後にして」や「炭坑節」。収容所で狂った知識人。妊娠すれば釈放されると胸をはだけて男に迫るまだ10代の女囚。水たまりに映ったさかさまのロシアの赤い星。少年の魂に刻まれた光景は説教めいた主張をすりぬけつつ、スターリン圧政下の旧ソビエトという時代の記録ともなっている。

 その時代にいた少年と少女が追っ手をまいて走りに走り角を曲がって思わず笑みがこぼれる時、耳を澄ますとそこには共に笑う監督の声が確かに聞こえてくる。一緒に笑って揺れるキャメラもそこにいる。

 時代の記録は親密な個の“今”の記録ともなって迫ってくる。『ひとりで生きる』で15歳となったワレルカの綿入れはいっそつんつるてんの窮屈さで成長したナザーロフの体を包んでいる。

 『ぼくら、20世紀の子供たち』で解体したソ連のストリートで生きる子供たちに、元ストリート・キッドの監督は対等の距離をつきつけて対峙する。牢獄の中にいるナザーロフの今が見出され、覚えているかと監督が訊く。笑みがこぼれる。また一緒に撮りたいという。守護天使がここにも現われる。

 20世紀末のサンクトペテルスブルグの大通りにはあのラスコーリニコフの末裔みたいな青年たちがうろうろとして、しかしソーニャの末裔がいないわけでもないらしい。そうやって現実が物語の真実と融け合う場所にもう一度、カネフスキーの声が問う。「君たちのもっとも崇高な理想のために、実の父親を殺すことはできるのか?」

 理想が狂った教条とすりかえられた時代を生き延びたひとりがまっすぐに放った問に、がむしゃらに走るワレルカの記憶が重なって、作り手とその映画の、素っ裸の少年魂に応える覚悟を鍛えたいと心底、思う。(川口敦子)