10月3日に枝野幸男氏が結党するや、衆院選においてリベラル派候補者が集う第三極としてみるみる存在感が増した立憲民主党。しかしながら、そもそもどのような主義・信条をして「リベラル」とするのでしょうか。今回のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』では著者でジャーナリストの高野孟さんが、150年の日本の近代政治史を紐解きながら、「日本的リベラル」について解説しています。

立憲民主党は「下からの民主主義」をめざす──日本的リベラルとはつまり民権主義のことなのだ!

立憲民主党の枝野幸男代表は、演説の中で必ず「もう右でも左でもない。上からか、下からか、だ。今までの政治は、上から目線の政治だった。立憲民主党は暮らしの現場からの、草の根からの、下からの民主主義を前に進める」と述べている。

希望の党の小池百合子代表も「右でも左でもない」と言っているが、ではどこなのだというと「ド真ん中のフェアウェイだ」そうで、これは右か左かという横の座標軸の設定を認めた上で、その真ん中を狙うという「中道」路線になる。それだと、民進党から真っ先に希望へ流れた細野豪志氏とも同じ、平面的な発想である。

それに対して枝野氏は、「もはや、右か左かという座標で政治は語れない。そうではなくて、上からか下からかだ」と、縦の方向に問題を立体化して捉え直しているのである。

この「下からの」が、実は立憲民主党のキーワードである。

坂野潤治は間違っている

折しも朝日新聞が13〜14日付で「リベラルとは」を連載した。直訳すれば「自由な」という意味だが、それだけでは分かるような分からないような。希望の党の小池百合子代表が一部民進議員を「排除」し、その対象となった人たちで結成された立憲民主党が「リベラル勢力」「リベラル新党」と呼ばれた。この「リベラル」をどう理解すればいいのかと同紙は問いかける。

日本近代政治史の泰斗=坂野潤治教授は、「リベラルとは、既存の価値を守ることを重視する保守と、急激な改革を志向する急進との間にある中道を指す」と語る。

歴史を振り返れば、「明治維新以降、近代の政党史は、藩閥政府を担っていた『保守』、議会の開設や2大政党制を目指していた福沢諭吉などの勢力が『中道』、より徹底した民主主義を求めた板垣退助ら自由民権派などが『急進』とされ、その3者が常にせめぎあってきた」。

しかしこの「保守〜中道リベラル〜急進」という図式は分かりにくくて、頭の整理に役立たないどころか、かえって混乱させかねないのではないか。

第1に、薩長藩閥政府は単なる保守というより、明治維新を主導した革命的な国権派と特徴づけるべきだろう。

国権は「国家権力」の短縮形で(英語で言えばstate power)、その確立を最優先するのが国権派である。当然、国家主義、統制主義、全体主義、国粋主義、対外膨張主義、大国主義、帝国主義等々といった、肩肘張った剣呑な方向に連続しやすく、それらの思想・政策傾向までを総称して「国権主義」と呼んでも差し支えないのではあるまいか。

薩長藩閥政府以来、今日に至るまで150年間の日本近現代史の1極、しかも概ね支配的な1極をなしてきたのはこれで、安倍政治はその今日的な(遅れて来た時代錯誤の、もしかしたら最後──にしなければならない打倒の対象としての)担い手である。

第2に、それに対して福沢諭吉が中道的で、従ってリベラルの源流だと見るのは、私に言わせれば買いかぶりというよりも、酷い誤解で、明治早々の頃の福沢が「天は人の上に人を造らず」などの西欧開明思想を翻訳・紹介した啓蒙家であったのは事実だけれども、1884(明治17)年の甲申事変をきっかけに朝鮮をめぐる清国とのせめぎ合いが激しくなると共に「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張の一点のみ」などと、清との開戦を強く訴える主戦論者の筆頭として「時事新報」で論陣を張った、まさに国権派そのものであって、中道もへったくれもない。

色川大吉『自由民権』も、福沢の「支那・朝鮮に接するの法も隣国たるが故とて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ。……我れは心においてアジア東方の悪友を謝絶するものなり」という口汚い文章を捉えて、「その後100年間、いまなおつづく日本の『脱亜入欧』の路線を、これほど挑発的にあからさまに述べたものを私たちは知らない」と断じ(ヘイトスピーチの元祖が福沢ということか!)、かつて人権や平等を説いたあの「福沢は1880年代にはもはや『存在』していない」と嘆いている(岩波新書、P.84)。こんな福沢が、中道でもリベラルでもあるはずがない。

第3に、国権派の対極をなす民権派の中に、板垣退助のような穏健派というか、生煮えの妥協をしたり買収されたりしながらやがて日清戦争の「勝利万歳」の呼号の中で国権派に屈服していった腰抜け派と、それを不満として武装蜂起やテロという極端に突き進まざるを得なかった急進派があったのであって、板垣が特に急進派であった訳ではない。

国権か民権かが中心座標軸

たぶん板野教授は近代政治思想史について詳しすぎるので、系譜の変転の複雑さやその微妙なニュアンスなどについて、高度の解説をして、それを朝日の記者が消化しきれないまま記事にしたのではないかと推測される。が、いずれにせよ、私は国権vs民権というシンプルな座標軸でこの150年間を捉えるのがいちばん分かりやすいと思っている。色川の言うところを聞こう。

民権派はまず専制政府を打倒し、国内の民主化を実現し、国民の自発性と愛郷心、愛国心をふるい起こすことが第一だと考えた。国民の合意にもとづく一致結束なくして防衛の根拠はない。まず守るに値する国家をつくろう。民権なくして真の国権はない。それまでは、たとえ日本の近辺で戦争が起こっても、われわれは局外中立を守るべきだ。これから先も軍事大国への道を歩むべきではなく、道義立国を基本としたアジア共同主義なり集団安全保障なりの可能性を追求すべきであると主張していた。

これは明治政府の防衛構想と根本から対立するものであった。明治国家は富国強兵を基本政策とし、とりわけ軍事力の強化による国権の伸張を第一とした。民権は国権の伸張に役立つ範囲においてのみ認めるが、それを自己目的とすることは許さない。国権なくして民権などあり得ない、というのが彼らの主張であった。しかも、彼らのいう国権の確立とは朝鮮支配を前提とし、欧米帝国主義の仲間入りをしえアジア大陸に権域を確保するという内容のものであった。この道を突進しようとする明治国家にたいして、真正面から立ちはだかったのが自由民権運動だったのである(同上、P.219〜)……。

それにしても、である。明治維新からわずか10年余、明治10年代前半までに、全国に1,000とも2,000とも言われる政治学習結社が下級武士や農民を中心として雨後の筍のごとく誕生して、国の行く末を激しく論じ合い、その一大民衆運動の中から、分かっているものだけで40を超える憲法草案が噴出した。中でも200条以上の条文を持つ本格的なものは、植木枝盛の「大日本国国憲案」と、千葉卓三郎起草のいわゆる「五日市憲法草案」であった。

(中略)

「押しつけ憲法」論の無知蒙昧

以上のような明治早々からの国権派vs民権派の対抗構図は、その後もいろいろに形を変えながら続いてきて、自由民権「運動」は明治憲法発布と帝国議会開設を待たずに弾圧され分解してしまうが、自由民権「思想」はそうではなく、兆民の直弟子の幸徳秋水をはじめ多様なチャンネルを経て大正デモクラシーから昭和の社会主義運動や反軍闘争、石橋湛山の小日本主義の提唱などに受け継がれていく。

それらが第2次大戦後、解き放たれて「戦後民主主義」の潮流となっていくのだが、その途中経過は今は全部端折らせて頂いて、憲法との関わりだけを言えば、戦後直後の憲法議論でいちばん重要だったのは鈴木安蔵ら7人の「憲法研究会」による1945年12月発表の憲法草案要綱で、これがGHQの憲法起草作業にも一定のインパクトを与えたと言われている。この鈴木は、自由民権運動史、とりわけ植木枝盛の研究者で、そのため鈴木らの憲法草案には60年以上前の植木草案の直接の影響を受けたと思われる条項も入っていたという。

この時期に民間で起草された憲法草案は14篇ほどあるそうで、明治10年代前半の勢いには及ばなかったとしても、解き放たれて自分らの手で新しい憲法を作ろうという気運が再来して百花斉放的な事態が生じた。しかし占領下では米国主導となるのは避けられず、とはいえGHQ内にも開明派や民主派がいてそれなりに日本側の努力を組み入れようとする努力もあって、まあ要するに日米合作で今の憲法は出来て、その一部には明治民権派の思想も流れ込んでいたのである。

だから、単純頭脳の右翼がこれを占領軍による「押しつけ憲法」だと言い募り、さらに輪をかけて安倍首相がこれを「みっともない憲法ですよ」とまで言い放ったのは、申し訳ないが、日本の近代史についての無知蒙昧のなせる業でしかないのである。

旧民主党のリベラル観の基本

さて、途中を飛ばして結論を急ぎたいのだが、96年に結成された旧民主党は、この「下からの民主主義」ということを基調に据えていた。

同党の結党宣言は(不肖私が起草し鳩山・菅両氏が若干文言を加えて発表されたものだが)その第1節「社会構造の100年目の大転換」でこう述べていた。

明治国家以来の、欧米に追いつき追いこせという単線的な目標に人々を駆り立ててきた、官僚主導による「強制と保護の上からの民主主義」と、そのための中央集権・垂直統合型の「国家中心社会」システムは、すでに歴史的役割を終えた。それに代わって、市民主体による「自立と共生の下からの民主主義」と、そのための多極分散・水平協働型の「市民中心社会」を築き上げなければならない。いままでの100年間が終わったにもかかわらず、次の100年間はまだ始まっていない。そこに、政治、社会、経済、外交のすべてがゆきづまって出口を見いだせないかのような閉塞感の根源がある。

3年間の連立時代の経験をつうじてすでに明らかなようにこの「100年目の大転換」を成し遂げる力は、過去の官僚依存の利権政治や自主性を欠いた冷戦思考を引きずった既成政党とその亜流からは生まれてこない。いま必要なことは、すでに人口の7割を超えた戦後世代を中心とする市民のもつ創造的なエネルギーを思い切って解き放ち、その問題意識や関心に応じて地域・全国・世界の各レベルの政策決定に参画しながら実行を監視し保障していくような、地球市民的な意識と行動のスタイルをひろげていくことである。

政治の対象としての「国民」は、何年かに一度の選挙で投票するだけだった。しかし、政治の主体としての「市民」は、自分たちがよりよく生きるために、そして子どもたちに少しでもましな未来をのこすために、自ら情報を求め、知恵を働かせ、別の選択肢を提唱し、いくばくかの労力とお金をさいてその実現のために行動し、公共的な価値の創造に携わるのであって、投票はその行動のごく一部でしかない。私たちがつくろうとする新しい結集は、そのような行動する市民に知的・政策的イニシアティブを提供し、合意の形成と立法化を助け、行動の先頭に立つような、市民の日常的な生活用具の1つである……。

官僚主導、強制と保護の上からの民主主義、中央集権・垂直統合型、国家中心社会──

市民主体、自立と共生の下からの民主主義、多極分散・水平協働型、市民中心社会──

という、文字数まできちんと合わせた、対照的なコピーとなっているのにお気づきと思う。

ここが実は旧民主党結成の「肝」で、それは要するに、遡れば国権か民権かということで、それを我々はリベラルの定義と考えてきたのである。

欧州に学ぶ補完性の原理

とはいえ、リベラルとか民権とかは、単なる掛け声ではない。「下からの社会編成」というのは20世紀の欧州から始まって21世紀に引き継ぐべき、ある意味では最大のテーマである。そのことを筋道立てて論じたのは、民主党が政権を奪取する直前に出た『VOICE』09年9月号の鳩山由紀夫論文「私の政治哲学」で、次のように言っている。

私が最も力を入れたい政策は「中央集権国家である現在の国のかたちを『地域主権の国』に変革」することだと言った。同様の主張は13年前の旧民主党結党宣言にも書いた。「小さな中央政府・国会と、大きな権限をもった効率的な地方政府による『地方分権・地域主権国家』」を実現し、「そのもとで、市民参加・地域共助型の充実した福祉と、将来にツケを回さない財政・医療・年金制度を両立させていく」と。

グローバル化とローカル化という二つの背反する時代の要請への回答として、EUはマーストリヒト条約やヨーロッパ地方自治憲章において「補完性の原理」を掲げた。補完性の原理は、今日では、単に基礎自治体優先の原則というだけでなく、国家と超国家機関との関係にまで援用される原則となっている。こうした視点から、補完性の原理を解釈すると以下のようになる。

個人でできることは、個人で解決する。個人で解決できないことは、家庭で、家庭で解決できないことは、地域社会やNPOが助ける。これらのレベルで解決できないときに初めて行政がかかわることになる。そして基礎自治体で処理できることは、すべて基礎自治体でやる。基礎自治体ができないことだけを広域自治体がやる。広域自治体でもできないこと、たとえば外交、防衛、マクロ経済政策の決定など、を中央政府が担当する。そして次の段階として、通貨の発行権など国家主権の一部も、EUのような国際機構に移譲する。

補完性の原理は、実際の分権政策としては、基礎自治体重視の分権政策ということになる。われわれが友愛の現代化を模索するとき、必然的に補完性の原理に立脚した「地域主権国家」の確立に行き届く……。

下からの民主主義という意味には、こういう欧州統合の中で培われてきた社会編成原理の提唱までが含まれていて、しかもそれは単に最近の輸入ものなのではなくて、明治初年にすでに世界最先端の思想として精彩を放っていたから繋がる日本独自の受容と対立と熟成の歴史を持っているのだということが重要である。

そういう訳なので、枝野氏が「下から」という言葉を吐く時に、どこまでそれだけの自覚があるのかないのかは分からないけれども、そのたった一言に、実は日本近代政治史150年が凝縮されているのである。

※ 編集部によりメルマガのオリジナル記事を一部中略しました。

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出典元:まぐまぐニュース!