偉人の伝記を読むと、彼らはつくづく運に恵まれていたと思うことがあります。好きなことばかりに没頭していたある日、地位と名誉とお金を持った人と偶然出会い、そして成功を収める。

ドラマや映画で描かれる「運命的な出会い」ほど大げさなものではありませんが、偶然訪ねた場所や出会った人などに影響を受けた経験はあるものです。私自身の現状を振り返ってみても、あの時あの場所で決めた選択がこうして今に繋がっていると思うことがあります。良し悪しはともかく……。

イタリアの自動車メーカーのひとつ「アルファ ロメオ」も、そんな偶然がきっかけで生まれました。

創業者であるニコラ・ロメオは、1876年にナポリ近郊のサンタンティモで生まれ、教育熱心な両親の元で育てられ、機械と電気工学の学位を取得。フランスとベルギーでエンジニアとして経験を積む一方で、いつか故郷のイタリアで事業を立ち上げようという想いを抱いていました。しかし、知識と経験はあるものの肝心の資金面に課題がありました。

そんな中、ブリュッセル〜リエージュの間の電車の中で隣に座ったひとりのイギリス人が、彼に幸運をもたらしました。彼は鉄道用マテリアルを販売する会社の役員で、当時イタリア支社の設立を任せられる人物を探しており、技術的知識に精通していたニコラ・ロメオはその場でスカウトされたのです。

そこで経営手腕を振るったニコラ・ロメオは、1906年に銀行のバックアップを受けて独立。鉱山機械生産を行なうN.ロメオ技師有限会社を設立し、次々に工業会社の買収に打って出ました。

時を同じくして、1910年にロンバルディア地方のクルマ好きの企業家がロンバルダ自動車製造株式会社を設立。頭文字をとって「アルファ」と呼ばれる同社は、優秀なエンジニアを集めてクルマを開発していました。

そのエンジニアのひとりがジュゼッペ・メロージです。彼が初めて手掛けた「24HP」は、モノブロック4気筒エンジンや軽合金クランクケース、トルクチューブ式シャフトなどを採用し、最高速度は100km/hを記録。創業からわずか1年でレースに参戦するほど高い実力を誇りました。

しかし、経営は悪化。ただ、アルファに可能性を見出したニコラ・ロメオが買収に手を挙げ、1915年に経営権を獲得。「アルファ」改め「アルファ ロメオ」となりました。

その後、ニコラ・ロメオは高性能グランツーリスモをテーマに据え、レースで勝利することが名声を高めるという確信のもとで開発を指示。直列6気筒ツインキャブレターエンジン(95hp)を搭載して157km/hの最高速度を記録した「RL」は、国際自動車レースのタルガ・フローリオに4台が出場し、表彰台を独占しました。

その後も、フィアットで量産車とレースカーの設計で頭角を現していた「ヴィットリオ・ヤーノ」をヘッドハンティングしたほか、設計と技術部門を独立させてエンジニアの裁量権を高めるなど、開発の熱意は衰えることなく、そこで開発された「P2」はクレモナ・サーキットで平均時速で195km/hを記録し、「8C2300」はル・マン24時間レースで初優勝し、「P3」はタルガ・フローリオやミッレミリアやドイツGPを制覇するなど、輝かしい実績を上げました。



しかし、第二次世界大戦で本社工場は破壊。

終戦後に立て直しが図られ、戦前にわずかに生産していた市販車「6C」を改良して販売を再開。ミラノのカロッツェリア・トゥーリングが手掛けたデザインは絶賛され、ヴィラ・デステのコンクール・デレガンスで優勝。ちなみに、アルファ ロメオのアイコンとなる盾のグリルは、このモデルから採用されています。

1950年には戦前の少数生産からの転換はさらに加速し、4気筒エンジンを搭載するセダン「1900」が登場。さらに、大量生産に適したモノコック構造する一方で高価な軽合金や独立懸架式フロントサスを与えて走行性能を追求した小型車「ジュリエッタ」を発売し、1962年にはその後継モデルである「ジュリア」を発表。1977年の販売終了までイタリアはもちろん、世界各国でイタリアの情熱が宿る個性的なモデルとして多くの人に愛されました。

そして、その「ジュリア」が新型となって再び発売されました。

ボディタイプは実用性を備えるセダンですが、フロントマスクや510psを誇るエンジンを搭載して走りの良さをアピールするなど、まさにアルファ ロメオならでは。

偶然の出会いがなければ、実現できなかったかもしれないと思うと……。

(今 総一郎)

イタリアの情熱が宿るクルマメーカーの誕生は「偶然の出会い」から【意外と知らないクルマメーカーの歴史・アルファ ロメオ編】(http://clicccar.com/2017/10/16/521115/)