港区在住。遊びつくした男が、40歳で結婚を決意。

妻には、15歳年下で、世間知らずな箱入り娘を選んだ。なにも知らない彼女を「一流の女性」に育てたい。そんな願望もあった。

誰もが羨むリッチで幸せな結婚生活を送り、夫婦関係もうまくいっていたはず…だったのに。

世間を知り尽くして結婚した男と、世間を知らずに結婚してしまった女。

これは港区で実際に起こった、「立場逆転離婚」の物語。

15歳年下の妻・利奈(りな)に理由もわからず、突然離婚を切り出された夫・昌宏(まさひろ)が家を出て、ホテル暮らしを始めて1週間が過ぎた。昌宏は、昔の恋人・藍子に仕事の相談があると呼び出されるが・・・。




2001年のシャトー・ラトゥール。

世界に名高い1級シャトーの赤ワイン。しかもこのワインの本領は「15年以上寝かせてこそ」発揮されると言われている。

本来なら最高の味わいが楽しめるはずなのに。

今の僕は、嗅覚も味覚もろくに働いていないようで、もったいない注文をしてしまったことを後悔していた。

いつだったか、親しいソムリエが「精神状態がテイスティングに影響する」と言っていたことを思い出す。

妻が離婚を切り出して以来ずっと不安だったし、気持ちが晴れたことは無かったが、今日初めてそれが怒りに変わった。

数時間前「妻の弁護士」とのやりとり以来、ずっと苛立ちが収まらないのだ。



会社に届いていた妻の弁護士からの「内容証明郵便」に気が付いたのは今朝のこと。そこに書かれていたのは…

…銘凌諭丙福ν奈)は弁護士を代理人とし、夫・昌宏との3か月以内の協議離婚を望む。

夫・昌宏側があくまでも「妻の提案を拒む」という場合は、法的手段も辞さない。

という2項目。

一方的に送りつけられたその書類に、法的効力が無いことは僕にもわかったが、やはり冷静ではいられない。

秘書に大切な電話をかけるからしばらく誰も近づけないように伝えた後、社長室に鍵をかけ妻の弁護士に連絡をとった。

「法的手段ということは、妻は離婚調停や裁判に持ち込むことも考えているということですか?」


弁護士をけん制するつもりが、新たな疑惑が…




僕の質問に電話の向こうの弁護士は、そうだと答えた。

ただし依頼人である妻は、できれば法的手段は取りたくないと思っている、とも言った。さらに…

「依頼人は、財産分与や慰謝料は一切求めないので”3か月以内の離婚”を承諾してほしいと言っていますが、いかがでしょうか?」

まるで「好条件でしょう?」と言わんばかりの弁護士の事務的な口調に腹が立った。

悪いがビジネスライクに話すことなら、僕も得意だ。

理由も示さず離婚を言い出した妻に、なぜここまで強気に出られなければならないのか。

「僕には、民法上の離婚原因に相当する不貞行為・過失などは何もないはずです。離婚調停、裁判になったとしても、そちらに勝ち目がないことは、弁護士さんが一番お分かりだと思いますが?」

「釈迦に説法」なことはわかっていたが、黙ってはいられなかった。

「それに離婚調停を始めれば、彼女の望む3ヵ月では離婚は成立できませんよね。裁判になって困るのは、そちらじゃないですか?そうなれば、僕も弁護士を雇って戦いますし、きっと妻が知られたくないことも…」

暗に「妻に男がいるのだろう」ということを匂わせ、僕が一気に言い切ると、電話の向こうで弁護士が少し笑った気がした。そしてこう言った。

「確かに裁判になれば、こちらに不利な要素が多いことは認めます。でも」

そこで言葉を切って、弁護士は続けた。

「こちらにも、作戦も切り札もあります。全く勝ち目のない依頼なら僕も受けたりしませんし…今日あなたと話したことで、新たな収穫もありましたから」

ただ、裁判はあくまでも最終手段でこちらも望んでいない、まずは自分が立ち会う夫婦の話し合いの場を設けたい、と弁護士は言った。

その返事が1週間以内に欲しい、と念を押され電話は切れた。



その電話のことが、頭から離れない。

弁護士が言っていた「切り札」はなんなのか?それに今日の電話が彼にとって、有利になったような言い方すらした。

せっかくのワインを飲んでも、イライラが止まらない。むしろ僕が攻撃に出たはずなのに、彼が何を得たというのか。

僕が離婚を避けるため動けば動く程、事態は望まぬ方向に進んでいくような不安に駆られ、叫び出したくなった。

その時、袖口に伝わる冷たい感触で我に返った。

白いシャツに赤いシミ。どうやらグラスを回す手元に力が入り、ワインのしずくが飛んだようだ。

シミはじわじわと不格好に広がり、不快感は強くなる。


元恋人と妻の思わぬ関係に夫は衝撃を受ける


「お連れ様がいらっしゃいました」

店員の声に、僕はとっさに汚れた袖口を隠しながら、ドロドロとした感情も押し込め、笑顔をつくった。

「ウソでしょ!シャトー・ラトゥール開けたの?しかも2001年って。何かいいことでもあったわけ?」

興奮した声をあげながら、藍子が僕の隣に座る。

夜景を楽しむため横並びに設置された、いわばカップルシートのような配置。

仕事の相談には不似合いかもしれないが、僕と藍子はそれを意識するような関係ではない。

誓って言うが別れて以来、僕らの間には男女関係は無いし、会えば仕事の話ばかりしている。

妻には話せない仕事の悩みも随分相談して、助けられてきた。

藍子は大柄のフラワープリントのラップワンピース姿。胸元は大きく開いているが、そこに男への媚は感じられない。

いわば「らしい」服装だった。彼女は自分の魅力を増すものを、良く知っている。

利奈なら絶対選ばない服だな。

そんなことをぼんやりと思いながら、挨拶代りに藍子の服装をほめた。

「藍子が好きだ、って言ってたのを思い出してさ。シャトー・ラトゥール」

僕の言葉に、藍子が呆れたように笑って言った。

「ほんと昌宏ってカッコつけないと生きて行けないのね。相変わらず」

「なんだよ、カッコつけるとか、相変わらずとか。喜ばせようと思っただけだろ?」

言葉に含みを感じて、やや棘のある言い方をしてしまったが、彼女は「相変わらずは相変わらずよ」とよくわからない返しをすると、すぐに仕事の相談を切り出した。

彼女が話し始めた、シンガポールのデジタルメディアを買収する可能性があるという話は興味深く、夢中で討論していた。

ちょうどボトルが開いたころ、仕事の話は終わったようだった。

ちらっと腕時計を見た藍子に、今度は僕が切り出した。

「まだ時間大丈夫かな?藍子の意見を聞きたいことがあってさ」

僕の表情から何かを察したのだろう。

じゃあ次の1本は私がおごるわ、と言った藍子はワインリストから「シャサーニュ・モンラッシェ」を選んだ。僕の好きな、はちみつのような味わいの白ワイン。

なんだ、藍子も僕の好みを覚えてくれてるんじゃないか、と思いながら話を切り出した。

「実は、このホテルに住んで1週間になるんだ」

深刻な事態だと思われるのは嫌で、僕は努めて明るく、妻に離婚を切り出されたことを話した。藍子は、静かに僕の話を聞いた後、僕にいくつか質問をすると黙り込んでしまった。

沈黙に耐えられなくなった僕は茶化すように言った。

「まあ、15歳も年下だしね。ちょっとわがまま言いたくなっただけなのかもしれないけどね」

すると溜息が聞こえ、予想外の言葉が返ってきた。

「お嬢様の反乱、か。彼女やるわね」

僕が言葉をはさむことを許さず、真剣な表情で藍子は続けた。

「あのね、私、あなたの奥様に何度か会ってるの。あなたには内緒にしてくれって言われてたんだけど…最近も」

「会ってた?…最近も?」

藍子の言葉の意味が分からず、オウム返しに繰り返した後、ハッとする。

「妻に会って、何か言ったのか?離婚を言い出したのは君のせいなのか?いつ、会った?」

「ちょっと興奮しないで。落ち着いて」

落ち着けと言われても無理だ。




「最初に会ったのは2年前。海外赴任から帰ってすぐ会いに行ったの。あなたが選んだ女の子に興味があって。意地悪なことしちゃったなってすぐに反省したし、彼女にも謝った。でもその後はね…」

その後は?この2年間、二人は何度も会っていたのか。

「むしろ、彼女を応援したくなったの。ねえ昌宏、源氏物語の結末を知ってる?」

平安時代の稀代の色男の話であることぐらいしか知識は無くて、僕は黙り込む。

「あれは男の悲劇よ。全てを与えて育てた女を失う男のね」

言葉を失いただ茫然と藍子を見つめ続ける僕に、彼女は困ったような悲しい顔で微笑んだ。

「かわいそうに」

と、声に出さない、僕を憐れむ藍子の声が聞こえた気がした。

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