【ライターコラムfrom山形】「選手よりも支える方に…」解説者・越智隼人氏が歩む“変わったサッカー人生”

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 セレッソ大阪で2年、モンテディオ山形で2年。4年のプロ生活でわずか7試合の出場記録を残し、22歳で引退した選手の話をしたい。彼の名は越智隼人氏。「スカパー!」で明治安田生命Jリーグの中継が始まった2007年から「DAZN」に引き継がれた今に至るまで、山形のホームゲームの解説を務め続けているから、山形のファンならずともその名前に聞き覚えのある人は少なくないだろう。元選手で解説者というと、よくあるセカンドキャリアのルートのように見えるかもしれないが、彼の場合は引退してすぐに解説の仕事に就いたわけではない。かと言って、指導者や職員としてクラブに残ったわけでもない。それでも、引退から13年目となる今も彼は、出身地でもない山形で「サッカーの仕事」をして生きている。

 1982年に埼玉県上尾市に生まれた越智氏は、小学生からサッカーを始めた。めきめきと上達したレフティは、中学時代には関東選抜チームに選出され、当時の横浜フリューゲルスユースに進む。同期にはMF田中隼磨(松本山雅FC)、FW坂田大輔(アビスパ福岡)らがいた。しかし1年でフリューゲルスが消滅し、合併した横浜F・マリノスユースへ。ちなみにこの時のマリノスユースの1年先輩にMF石川直宏(FC東京)がいた。今季限りでの引退を発表した石川の当時の印象を越智はこう述懐する。

「ナオ君はおしゃれでスマート。かっこいい先輩がいっぱいいた中でも、ちょっと違うオーラがあった。選手としてだけでなく、男としてお手本にしたいと思う人だった」

 越智氏によれば、“奥田民生になりたいボーイ”ならぬ“石川直宏になりたいボーイ”が当時の石川の周りにはたくさんいたらしい。ただ、そんな洗練された先輩の影の努力も越智は目の当たりにしている。ユース時代、同じ時期に大きなケガをしてリハビリをともにした。

「弱音を吐くこともなく黙々とリハビリに取り組む姿をずっと見ていた。ナオ君の、弾けるようにパンッ! と抜け出すしなやかさを支えているのは、あの高校生の時のリハビリなんだって。それを俺は近くで見ていたぜっていう思いはあります」

 懐かしそうに嬉しそうに、そう話す。ケガの癒えた先輩は順当にトップチームに昇格して行き、高3になった越智は「すごく強かった大人のチーム」でクラブユースサッカー選手権(U−18)全国制覇を果たす。快挙を成し遂げたユースメンバーからは総勢7人がトップチームに昇格。しかしその中に越智の名はなく、獲得を希望したC大阪で、2001年に越智のプロ生活がスタートした。だが、その世界に身を置いてすぐに、生き残っていく厳しさを感じたという。

「プロは大変なところだというのは最初から感じた。セレッソに入ったらFW大久保嘉人(FC東京)みたいな選手が同期にいて、持っているモノが違うというのがわかってしまった」

 それでも、ジョアン・カルロス監督の下、1年目のセカンドステージでデビュー。この年J1でフル出場1試合を含む5試合に出場している。だが、監督が交代しJ2に降格した2年目の出場はなく、契約は満了した。行き場を探した越智に声をかけたのが山形だった。しかし、山形での2年間で出場は2年目の2試合のみ。2004年シーズン終了を以って契約が満了すると、越智は次の所属先を探さなかった。22歳の早すぎる引退である。

「自分の限界を自分で決めちゃったのかもしれないけど、Jリーグの中での自分の能力を俯瞰で見たら、早めに、と」。

 今の彼を見れば、この客観性こそが解説や指導に活かされているのだとわかるが、それにしても淡白ではないか。渇望しても届かないことの方が多いプロサッカー選手という職業に、人はもっと執着するものではないのか。そう感じながらも話を聞き進めるうちに、そこにはやはり簡単には説明できない葛藤があったことを知る。