日本は岡田監督で南アW杯を戦った後、ザッケローニ監督のもとで再びポゼッションをベースにしたサッカーを目指したが、ブラジル大会の惨敗で再び現実路線に回帰している。写真:山崎賢人(サッカーダイジェスト写真部)

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 オズワルド・アルディレスは「必ず来る質問だと思っていたよ」と、ほくそ笑んだ。清水時代のことだ。返答は分かり切っていたが、こちらも挨拶代わりみたいなものだった。
「あなたはメノッティ派ですか、それともビラルド派?」

 
 アルゼンチンにはふたりのワールドカップ優勝監督がいるが、志向は両極端だった。1978年地元開催を制したセサール・ルイス・メノッティは、技術的な長所を引き出し、フェアで攻撃的な姿勢を貫いた。逆に1986年メキシコ大会で勝ったカルロス・ビラルドは、ディエゴ・マラドーナという絶対の武器を活かすために守備武装した。4年後のイタリア大会も決勝へ進出したが、劣勢で悪質なファウルを繰り返し、毎試合カードが積み上がった。
 
 もちろんアルディレスは、メノッティ指揮下で初優勝したチームの中核なので、同じように美しく攻撃的なスタイルを追求した。一方自国で大きな期待を背負って戦う重圧について尋ねると、こう表現していた。
「アルゼンチンでサッカーはナンバーワンではない。唯一のスポーツだからね」
 
 裏返せば、こんな大国でも代表チームの志向は揺れ動く。スペインでも、バルサ黄金時代を少しだけ遡れば、フィジカル重視のハビエル・クレメンテ時代になる。ブラジルは、1970年メキシコ大会を最後に24年世界一から遠ざかるのだが、ようやくアメリカ大会で王座を奪還したカルロス・アルベルト・パレイラ監督は、守備的過ぎると酷評された。3年前のワールドカップ開催中も、現地で「58」(初優勝)、「70」(3度目の優勝)、「82」(黄金のカルテッド)を讃えるTシャツは目だったが、「94」(アメリカ大会)を見かけることはなかった。比較的トーンが変わらないイタリアにしても、さすがに毎回カテナチオを引きずっているわけではないのだ。
 
 さて、そのイタリアでは異端の部類に入るアルベルト・ザッケローニを招聘し、前回ブラジル大会で惨敗した日本代表は、再び勝利への近道を求めて現実路線へ舵を切った。確かにオーストラリア戦の快勝で、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督が瞬く間に求心力を高めるのを見ると、ミハイロ・ペトロヴィッチ前浦和監督が繰り返した「日本は結果至上」との指摘にも頷ける。
 逆に今、対照的な道を歩んでいるのがオーストラリアである。2005年オランダで開催されたU-20ワールドカップで対日本戦を見た。試合前のウォームアップを見る限り、技術の精度には雲泥の差があったが、結果は引き分けだった。だが、現在オーストラリア代表を指揮するアンジェ・ポステコグルー監督は、技術を高める前に短絡的にフィジカルの強さで勝負してきた伝統を危惧したのだろう。「それが我々の哲学だから」と、徹底してポゼッションにこだわった。
 
 まるでオールトラリアの選手たちは、敢えて最難題に取り組んでいるかのようだった。大柄でお世辞にも器用とは言えない選手たちが、空中戦縛りでもしているかのように丁寧につなぎ続ける。ティム・ケイヒルやトミ・ユリッチを送り込み、パワープレーに走った方が効果的なのは指揮官も分かっていたはずだが、それではアジアで勝てても、その先の展望が開けない。なんだか日豪の監督を入れ替えれば、どちらも適任という印象の不思議な試合だった。
 
 幸か不幸か、日本では代表チームの影響力が甚大だ。フィリップ・トルシエが「フラットスリー」と言えば、即座に少年団まで3バックに染まる。ハリルが「デュエル」「速いカウンター」を唱えれば、全国の指導者もなぞるかもしれない。だからこそ技術委員長は、明解な道標を示す必要がある。結果を出すための微調整は分かるが、やはりドイツやチリの成功を見れば、一貫性の効果は顕著だ。

文:加部究(スポーツライター)
※『サッカーダイジェスト』2017年9月28日号(9月14日発売)より抜粋。