純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 朱子学/陽明学については、いろいろな本が出ている。が、まず一般の人には、読んでもわからないのではないか。だいいち、人名などからして漢字が読めまい。歴史もなにもふっとばしてかんたんに言うと、リーダーのあり方には朱子学型と陽明学型があって、どちらがいいか、数百年にわたって言い争っている。

 朱子学的リーダーというのは、オレの背中を見てついてこい、というやつ。とにかくみずから率先して行動し、部下たちに模範を示す。でも、それだけ。それ以上のことはしない。ごちゃごちゃ、あれしろ、これしろ、など、部下たちに指示したり、命令したりしない。ある意味、部下たちを全面的に信頼している。とはいえ、またある意味では、自分と同じスタイルしか認めない。部下たち全員が、自分とまったく同じようになってくれることを期待している。

 他方、陽明学的リーダーというのは、部下たちの私利私欲を容認してしまう。有象無象の連中ごときが自分と同じように組織のことを考えるようになるなど、けっして期待しない。そうではなく、連中のそれぞれがなにをどうしたがっているのかを細かく観察理解し、これらの私利私欲が全体として課題解決に向かうように、工夫してうまく組み上げてやる。だから、それぞれの部下が好き勝手にやっているだけにもかかわらず、適材適所の配置、臨機応変の指示で、気がつけばきちんと成果があがっている。

 どちらが統率力があるか、魅力的か、など、なんとも言えない。朱子学的リーダーは、一見、とても冷たいように見える。しかし、内心は熱く、部下たちを全面的に信頼している。逆に、陽明学的リーダーは、見た目はとても温厚だ。しかし、その本心では私利私欲にはしゃぐだけの部下たちを心底から見下している。

 しかし、この二つのリーダーシップのタイプは、組織の成長拡大において、大きな問題となる。というのも、朱子学的リーダーの下で自発的に育ってきた部下たちは、だれしもが均一にリーダーの気風を受け継いでおり、分社や継承がしやすい。ただし、そのリーダーの気風によっては、激しい内部対立を起こし、血で血を洗うような抗争になる。他方、陽明学的なリーダーの下でずっと守られてきた部下たちは、そのリーダー無しには生きていけない。全体をうまくまとめてきたリーダーが死んだら、組織全体が瓦解。それどころか、その瓦解した組織からこぼれ落ちても、連中は、もはや好き勝手なやり方に慣れきってしまっていて、どこに行っても、なにもできない。

 したがって、現実問題としては、リーダーシップは朱子学型と陽明学型を二重化する必要がある。すなわち、幹部候補の経営陣に関しては、いつ自分になにかあっても組織が継承されるように、また、必要に応じていつ分社しても、そのそれぞれがきちんと独立して機能するように、朱子学的に育てていかなければならない。その一方、それ以下の被雇用者については、はなからできもしない人材育成でむだに手間をかけたりせず、いかに徹底的にその好き勝手な私利私欲を組織として活用するか、陽明学的な工夫をしないといけない。

 会社に来ている連中みんなに、会社へ忠誠を尽させようなどとするな。カネ目当て、一時の腰掛け、肩書きほしさ、ただなんとなく来ているだけ、などなど。上はバリバリ働くのが当然だと自分は思っていても、下にはむしろそう思っていない連中の方が多い。だからといって、上としては、そんな下の連中を遊ばせておくわけにはいかない。それぞれの好き勝手な私利私欲を見極め、その私利私欲のゆえにみずからがんばるようなところでうまく活用する。その一方、いつでも自分の代わりになって、いざというときに信頼して仕事を任せられるような人材を早めに選び出し、自分の背中で引っ張って育てておかないといけない。

 とはいえ、こんなことは、じつはどこの会社、どこの組織でも、ふつうにやっていることだろう。ただ、この二つのタイプのリーダーシップを、それぞれの部下ごとに自覚的に明確に使い分けることが大切だ。そうでないと、好き勝手な部下たちを前に自分一人がすべてを背負い込んで自滅してしまったり、逆に部下たちに期待しすぎても、過労だ、自殺だ、上司のせいだ、と逆恨みされたりする。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近書に『アマテラスの黄金』などがある。)