崖っぷちに立たされたアルゼンチンを救ったのは、他でもない大黒柱のメッシだった。背番号10は、その傑出したパフォーマンスで国民の魂を揺さぶった。 (C) REUTERS/AFLO

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 南米予選で苦心していたアルゼンチンが、現地時間10月10日のエクアドル戦で3-1の勝利を収めてようやくロシア行きの切符を掴み取った夜、アルゼンチン国内ではSNSで「Gracias D10S」(D10Sよ、ありがとう)という言葉がトレンドワードとなった。
 
「D10S」とは、スペイン語で神を意味する単語「Dios」と背番号10をかけた造語だ。アルゼンチンではこれまで、あのディエゴ・マラドーナを表わすロゴとして定着していたが、リオネル・メッシのハットトリックによる劇的な逆転勝利の感動に国土全体が揺れた直後、「D10S」は、アルゼンチン国内でもメッシの代名詞となったのだ。
 
「アルゼンチンでも」というのは、すでにスペインメディアはそれ以前から、この呼び名をメッシのために頻繁に使っていたからだ。バルセロナでの活躍が「神」として尊信される一方、アルゼンチン国内では、サッカー界で「神」といえばマラドーナと決まっている感がある。
 
 そのため、W杯出場権獲得後、アルゼンチンの人々がメッシに「Gracias D10S」という言葉を一斉に捧げた現象は、これまでマラドーナが君臨していた聖域に、ついにメッシが足を踏み入れたことを明確に示していた。
 
 ただ、注意したいのは、決して「アルゼンチンの国民が“ようやく”メッシを認めた」という意味ではないという点である。アルゼンチンの人々はとっくにメッシを認めているし、愛している。6年ほど前まであった、神童に対する不信感は存在しないと言っていい。
 
 今でも選手としてのメッシを批判し続けるのは、「アンチ・メッシ」という肩書きにプライドを感じる一部のジャーナリストと、サッカーというゲームそのものをよく理解していない、またはサッカーにほとんど興味を抱かないアルゼンチン人のみだ。
 
 その他の一般的かつ典型的なアルゼンチン国民は、メッシが殊勝な活躍を見せた前回のW杯南米予選を機に、彼に対する考えと態度を改めている。
 
 前回の予選で国民を味方につけたメッシが、今予選で、しかも本大会行きの懸かった最終節で、「神」と化したことは、過去2年間、アルゼンチン・サッカー協会(AFA)の崩壊から方向性を完全に見失ってしまっていたこの国のサッカー界に、新たな希望と多大な可能性を感じさせた。
 そんな中、前述の“アンチ・メッシ”の代表格である著名ジャーナリスト兼タレントのアレハンドロ・ファンティーノは、メッシを皮肉たっぷりに「称賛」した。
 
 ファンティーノはかねてから、アルゼンチン代表が「メッシの友人たち」で構成され、メンバーも監督ではなくメッシが選んでいると主張し続けてきたが、W杯出場を決めた翌日、自身のラジオ番組の中で、「メッシが昨日のような素晴らしいプレーをするのなら、自分でメンバーを選ぶ権利を勝ち取ったも同然。それでいいじゃないか」と口にした。
 
 さらに皮肉を続けたファンティーノは、「なにせ、ひとりでチームをW杯へ導いたんだ。彼が快適だと言うなら、このやり方でプレーさせてやってくれ」と語り、その活躍を認めながらも、メッシがチームを作っているという考えをあくまでも貫く挑発的な姿勢を示した。
 
 いまや少数となったアンチ・メッシたちが健在ぶりを発揮する一方、48年ぶりの予選敗退という屈辱を回避できた安堵感は、それまで固く閉ざされていた選手たちの心の鍵を開いてみせた。
 
 キャプテンであるメッシのアイデアで、昨年11月のコロンビア戦(南米予選12節)から続いていた「取材拒否」に終止符を打つことになったのだ。
 
 エクアドル戦直後の控え室では、ファンティーノのような一部のジャーナリストを強く批判する内容の歌を合唱していた選手たちだったが、ミックスゾーンでは、応援してくれた母国のファンに喜びの言葉を伝えることを重視し、選手全員が丁寧に取材に応じた。