2015年12月19日に開催した武道館ライブの様子(写真:HayachiN)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第12回。

四半世紀以上の間、メジャーレーベルとインディーズレーベルを渡り歩いて活動しているロックバンドがある。1989年に名古屋で結成したフラワーカンパニーズだ。これまでミニアルバムを含めて通算18枚のオリジナルアルバムをリリースしており、2015年12月には初の武道館ワンマンライブを成功させた。近年では『深夜高速』(第1期インディーズ時代)が広く知られる。


第1期インディーズ期の契機となったシングル『深夜高速』(撮影筆者)

メンバーは鈴木圭介(ボーカル、48)、グレートマエカワ(ベース、48)、竹安堅一(ギター、47)、ミスター小西(ドラムス、47)の4人。中学と高校の同級生同士で組んでおり、これまでメンバーチェンジや活動休止は1度もない。

ブルースロックやパンクロックなどが組み合わさったバラエティに富んだ楽曲に、内省と自虐が深掘りされた詩世界が融合した独特の魅力は、全国津々浦々のライブを通して年代を問わずコアなファンを獲得し続けている。

しかし、何万何十万の動員が見込めるようなロックスターではない。メジャーレーベルで契約解除の憂き目を見たりもした。自らバンドヒストリー本の表紙に「活動休止なし! ヒット曲なし!」と書くように、ヒットチャートを頂点近くまで駆け上がった経験もない。

スターになるか夢破れて散るかの二者択一なのか?


この連載の一覧はこちら

それでも上記のとおり、長年実績を積み上げている。ボーカルの鈴木さんは「消えぞこないでも立っている」「燃えカスになってくすぶり続けていく」と、自虐に逃げずに自虐を歌う。

そして、そのしぶといバンド活動を中心で支えているのが、ベースでありバンドリーダーのグレートマエカワさんだ。第1メジャー期以降、バンドの金銭管理も担当するようになり、ライブやツアーのブッキング、グッズの企画や販売、広報戦略を含めたバンド運営の要を一手に担ってきた。2008年からは株式会社フラワーカンパニーズを設立し、その代表取締役にも就任している。ほかの役員はメンバー3人だ。

ロックバンドはスターになるか夢破れて散るかの二者択一なのか。そうではない生き様を証明し続けるバンドを牽引するマエカワさんに、これまでの半生を振り返ってもらった。そこから見えてきた「最適化」というキーワードは、職種を問わず生きるものがあると思う。


グレートマエカワさん(写真:村田らむ)

マエカワさんが生まれたのは1969年9月の名古屋市東部(現天白区)。工場勤務の父と家事をしながらパートで働く母の下、木造平屋の住まいで5人一家の末っ子として幼少期を過ごした。裕福ではないものの、とりわけ貧乏でもなく、「ごく普通の家庭」だったという。

人格形成に大きな影響を与えたのは2人の兄だ。5歳上の次兄は近所の子どもたちをリーダーとして仕切っており、その薫陶を受けたマエカワさんは友達のなかでいつも中心的な存在になる小学生に育っていった。「威張ったり腕力で黙らせたりというわけじゃなかったけど、『今日はドッジボールやろう』『今日は野球やろうぜ』っていつも電話を回したりしていましたね」。

そして、7つ上の長兄が大学でベースを弾いていたことが、ベーシスト・グレートマエカワを生むきっかけとなっている。マエカワさんがベースに触れたのは中学2年のとき。学校全体でバンドブームが起きており、友達とバンドを組むためだった。

「1人歌がうまいのがいて、1人ギター持ってて。じゃあ俺は家にベースがあるからベースやると言って組みました。音楽の授業ははっきりいって苦手だったけど、洋楽のヒットチャートはずっと追っていたりして、音楽自体はすごく好きでしたから」

バンド熱は高校に入ってなお高まり、2つのバンドを仕切ってライブをしつつ、毎日音楽談議に花を咲かせた。バンドメンバーたちと大学に入っても音楽を続けたい。そう思って高3の秋から受験勉強に専念し、実家から通える大学に合格したが、ほかのメンバーは全員浪人してしまった。

それでもバンドがやりたい思いは消えない

大学に通いながら1年待つと、メンバーの多くはほかの地域の大学に入学し、残ったのは高校で誘った竹安さんのみだった。計画は実現不可能になったが、それでもバンドがやりたい思いは消えない。ベースとギター。それ以外のパートはいないかと探していたところ、ちょうど鈴木さんと小西さんが自分たちのバンドを解散してフリーになっていた。ひとまずスタジオに入ってセッションしてみようと誘った。

「鈴木と小西はもともと中学からの友達だし、鈴木とは中3のときにことあるごとに電話しとった仲だったので。でも、音楽性が違うのも知っていましたので、バンドを組もうとは思っていなかったですね。2人は直前までパンクっぽいバンドを組んでいて、自分や竹安は1960〜1970年代のブルースロックやカントリーロックとかが好き。全然違うけど、初期のローリング・ストーンズとか共通で好きな楽曲もあるから、それをちょっとカバーしてみようよということで集まりました」

そうして音を合わせてみると面白く、来週もう1回、再来週にもう1回と回を重ねるうち、オリジナル曲をセッションで作るようになっていた。するとライブしたくなってくる。その年の8月にやることを決めた。バンド名が必要になったので、フラワーカンパニーズとつけた。マエカワさんが大学で立ち上げたサークル名に、鈴木さんがつけたがった「ズ」を添えた名前だ。

フラワーカンパニーズの活動は順調で、半年後には東海地方で名門といわれるライブハウス・名古屋Electric Lady Land(通称E.L.L.)に月イチでブッキングされるようになる。当時アマチュアバンドがライブハウスに出演するためには、そこにデモ音源を送って合格する必要があったが、この関門を一発でクリア。翌年夏には若手バンドのイベント「TOYOTA YOUNG MUSIC FESTIVAL」で優勝し、ソニーの新人発掘部署の人から声をかけられるようにもなった。ソニーといえばメジャーレーベルを複数持つ企業。メジャーデビューが現実的な目標として見えてくる位置に来ていた。


当時は、プロを目指す気がなかったという(写真:村田らむ)

しかし、当時のマエカワさんはプロを目指す気がなかったという。

「食べていける感覚がまったくなかったですね。プロで売れるまでフリーターで頑張るとかそういうタイプでもなかったですし、大学で経営学部を選んだのも将来潰しが利きそうと思ってのことでしたし。人としゃべることが好きだから、将来は営業の仕事をやるのかな〜なんて思っていました。

鈴木は当初からプロになりたいと言っていたけど、小西もそんな感じじゃなかったし、竹安もたぶん何も考えてなかったんじゃないかと思いますね」

ライブを重ねるたびに感じる可能性

一方で、ライブを重ねるたびにフラワーカンパニーズの可能性を強く感じてもいた。大学4年になり、周りが就職活動するなかで、8月に出演したライブで迷いが吹っ切れる。

「先輩のライブに呼ばれて出たんですけど、動員もよくて、最後のセッションもあまりに楽しくて。これは就職して終わらせてしまうのは惜しすぎるなと。その翌日か翌々日に母親に『就職せずにしばらくフリーターやらせて』と言ったと思います。無茶苦茶驚かれましたね」

バブル期の当時、フリーターはまだまだ少ない時代で、マエカワさんの周りでも「バンドしたい奴しかいなかった」というくらいだった。それでもバイトしながらメジャーで成功することを目指して1本で戦う決意を固める。卒業間際、ソニーのインディーズレーベルからアルバムが出せたことも大きなモチベーションとなった。

上京したのは翌年の1994年。晴れてメジャーデビューが決まり、秋からは給料が出るようになり、そこで皆バイトを辞めた。1995年に1stアルバムを出すと、以降は毎年アルバムをリリースし、メディアにも積極的に露出するなどスターダムに向かうレールに乗った状態になる。

いや、乗せられた状態というほうが正確かもしれない。

レールと自分たちとのズレを感じるようになったのは、1998年に5thアルバム『マンモスフラワー』を出してからだ。同アルバムはバンドにとって最高セールスを記録するが、レーベルが想定した数字に届いてはいなかった。想定した成長曲線に合わせて数年先まで予算をつぎ込んでいくメジャーのビジネスモデルからすれば、飛躍ではなく、つまずきといえた。

「それまではバンドもそれぞれの生活も一応順調でした。だけど、後からデビューしたバンドがドーンと売れてすごいことになっているのを傍目で見ているし、自分たちが右肩上がりではないことはわかっていましたからね。そこに周囲の期待と現実のズレがはっきりとして、1998年から1年半くらいはもう、やることなすことうまくいかない状態になっていました」

それでも想定ルートは止まらない。全国ツアーの会場はライブハウスから大規模なホールにグレードアップし、空席や反響の少なさはメンバーやそれを支えるスタッフを容赦なく疲弊させていった。バンドの求心力は下がり、解散危機もあったという。2枚のアルバムをリリースしたものの改善の兆しはなく、2000年になると専属マネジャーを解雇せざるをえない状態まで事態は悪化した。

プロのバンドは正式メンバーや演奏のサポートメンバーのほか、金銭や仕事を管理するマネジャー、ライブをブッキングするライブ制作、ライブ周りのサポート全般を担うローディーや音響機材等を操作するPAエンジニア、広報や事務スタッフなど多くの人に支えられて成り立っていることが多い。それぞれの所属は、バンドのマネジメント会社だったりレーベル会社だったりフリーランスだったり、さまざまだ。とにかく大勢のスペシャリストがかかわっているわけで、マネジャーの抜けた穴は小さくなかった。

埋め合わせしたのはライブ制作スタッフとマエカワさんだった。バンドメンバーがマネジャーも兼ねる事例は周囲に見当たらない。だから、ひたすら手探りでライブや物販の収支管理を覚えた。そのノウハウは皮肉なことにすぐ役立つことになる。レーベルから契約解除を通知されたためだ。

メンバー4人、誰も辞めるとは言わなかった

4人集まって話し合いをしたところ、誰も辞めるとは言わなかった。

「あのときは31〜32歳で、結婚していたメンバーもいて。おカネのこととか家族のことは口出しできないというのはあったけど、自分はバンドを続けたかった。それが皆同じだったから、『じゃあ何カ月かライブを入れていこう』となったのを覚えています」

契約解除は通知から半年後。それまで所属事務所から支払われる毎月の給料が1万円ずつ下がっていくということだった。幸いなことに、当時のディレクターが同時期に同社を辞めてインディーズレーベルを立ち上げることになり、CDのリリース元は確保できたが、給料はもう出ない。この猶予の間に自分たちだけでやれるだけのことをやってみることにした。

スタッフにいくら払えばいいのかわからない。だから、ライブ制作もマネジャーもマエカワさんが担い、ローディーの仕事は4人で分担した。つながりのあるライブハウスやイベンターの人たちに事情を話して、ブッキングしてもらったり人脈とアドバイスをもらったりした。この手探りのなかで、1台の機材車に機材とメンバーを積み込んで全国のライブハウスを回るスタイルが確立し、現在まで継続している。

また、バイトは極力やらないようにメンバーともども心掛けた。ライブの調整が困難になっていき、バンドとしての生き残りを左右すると思ったためだ。メジャーレーベルを辞める前、半年近くライブができない期間があり、動員が10分の1になった地方もあった。ブランクができると人は集まってくれなくなる。一方で、それでも聴きにくるファンの熱気のすごさも学んだ。これらの体験から、年間100本を超えるライブを行うようになったのは自然な流れだったのかもしれない。

生き残るために必死で手探りしていた時期だが、意外にも生活は安定していたという。マエカワさんの判断で契約解除前からライブ収益を“バンド財布”にプールしており、そこからフリー後の給料が賄えたためだ。最初の給料は、デビュー直後の給料だった15万円×4。そのほか、作曲印税などの収入は4人で均等に分けているが、そちらは雀の涙だという。

「もともと4人ともあんまりおカネを使わないというか、メジャー時代も生活水準を上げることに興味がなかったんですよね。だから、これで普通にやってこれたし、皆何も言ってこなかったです。さすがに2年くらいしたら、鈴木に『もうちょっと上げてくれないか』と言われましたけど(笑)。僕はバンドとしておカネがなくなるのが怖いから、余剰金が出たらそっち(バンド財布)にため込んじゃうんです。いつ何があるかわからないし、われわれはほかに仕事もできないので、そういう危機感はずっとありますね」


ライブ中のグレートマエカワさん(写真:吉田圭子)

そうして4年が過ぎた2004年秋ごろ、ライブ会場限定シングル『深夜高速』がファンの間で話題となり、新しい展開を生む。販売枚数自体は「前が1500枚くらいだったのが3000枚になった程度」だったが、評判は有線放送やラジオ、テレビの電波に乗って、ファン以外の人たちにも広くバンドの現在地を知らしめるのに貢献した。

「1990年代は『フラカン(フラワーカンパニーズ)ってチャラいよね」と思っていた人たちの一部が、『あ、なんか変わったんだ』『今はこうなってるんだ』と思ってくれたみたいで、あれから野外フェスに呼ばれるようになりました。それで、ずっと手探りだった意識が『俺たちまだ行けるぞ』に変わった感覚がありました」

その感触と同時に、所属レーベルとの歩調のズレが気になるようになっていった。レーベルは事業収益のほとんどをフラワーカンパニーズのコンテンツに頼る構造になっていたため、当然ながらリリース頻度を高めてほしいと思っている。しかし、バンド側はすでに持ち歌が多く、あまり頻繁に新譜を出してもライブに反映しづらい事情がある。加えて、レーベル側の情報拡散力に不満を持ってもいた。「このままでは共倒れになる」ということで、通算11枚目のフルアルバムをリリースした後に別々の道を歩むことにした。

売るためのアイデアが欲しかった

そうした経緯があり、新たなレーベルには、宣伝に関するアイデアを強く求めた。

「会社でも1人のディレクターでもいいんですけど、売るためのアイデアが欲しかったんですよ。自分たちにはそれがないことはわかっていたから、『この人に任せたら面白いことになりそうだな』という人と出会いたくて、とにかくいろんな人と話をしました」

そして2008年7月、古巣と同系列のメジャーレーベルに移籍することになる。過去に少しだけかかわった強烈なアイデアマンが本格的にチームに入ってくれるということが決定打だった。契約には法人が必要ということで、株式会社フラワーカンパニーズもこのときに設立している。

第2メジャー期は、期待どおりに売るためのさまざまなアイデアがバンドに注ぎ込まれた。20周年にリリースしたベストアルバムを『フラカン入門』というタイトルにして『石ノ森章太郎のマンガ家入門』とコラボしたアルバムジャケットを制作したり、『深夜高速』1曲だけを13アーティストがカバーしたアルバムをリリースしたりと、話題性の高い企画を次々に実現。冒頭のバンド史上初の武道館ライブを成功させたのもレーベルスタッフの貢献が大きいという。


「武道館ライブを成功させたのもレーベルスタッフの貢献が大きい」(撮影:HayachiN氏)

再びインディーズでの活動に軸足を移した3つの理由

しかし、8年経過した2016年には離れ、現在バンドは自主レーベル「チキン・スキン・レコード」を拠点として、再びインディーズでの活動に軸足を移している。

なぜか? 理由は3つあるという。

「メジャーには合わせて13年くらいいて、本当に手厚くやってくれました。感謝しかない。なんだけど、正直売れていない。だから、フラワーカンパニーズというバンドはメジャーでは売りにくいバンドなのかなと思い至ったんですよね。それが1つ。

あと、単にCDが売れない時代になってきて、メジャーでもインディーズでも枚数はたぶんそんなに変わらないだろうなというのが1つ。

すると、今いるお客さんを大切にしつつ、自分たちの手で新たに広げていかないとならないんですが、武道館でいちばん頑張ってくれたスタッフが去年ソニーを辞めてわれわれの活動を手伝ってくれることになって。その人と、全国各地には僕らのライブ活動を支えてくれているイベンターさんもいてくれるので、われわれに合ったピンポイントな宣伝の場を作ってくれるんじゃないかというのがあって。自分たちに最適なやり方ができそうな可能性を感じたんですよね。それが最後の理由です」

武道館ライブの宣伝の一環で、全国のイオンモールでアコースティックライブを行ったとき、自分たちのことをまったく知らない人たちがすごく楽しんでくれた。そこに、あるいは音楽フェスを超えるような可能性を感じたという。自分たちのやり方はこっちじゃないかと。それなら所属は関係ないし、より自由にやれる環境に身を置いたほうが効率的に試していける。手探りではあるが、最初にメジャーからインディーズに移籍したときとは見えている景色がまったく違った。

現在は作品を発表できる場が広がり、セルフマネジメントで活動しているバンドも増えてきた。それでもフラワーカンパニーズがたどった軌跡は特異で、同業者から生き残りのコツを聞かれることがしばしばあるという。マエカワさんはもちろん相談には乗るが、明確な答えはいつも出さない。

「自分たちのことだからできるけど、それをほかのバンドに当てはめるとなると、やっぱり全然違うじゃないですか。目標とするところも必要なおカネも違うし、メンバーの価値観や人間関係も違う。バンドは村だから、別の村のルールを当てはめても絶対うまくいかないんですよね」

自らを分析して実証して最適解を掘り下げていくと、自らに最適化しすぎて他者にはどんどんフィットしなくなる。バンド単位でも個人単位でもそこは変わらない。

マエカワさんはマネジャーやライブ制作、会社経営などの仕事をほかの3人に回さない。傍目で見るとため込んでいるようにも見えるが、このスタイルも自分にとっての最適解だとわかってやっている。

「人に言われてやるよりも自分で決めてやったほうが面白いという性格なんですよね。おカネの管理は自分がいちばん向いているけど、ほかの発想とかは3人のほうがいいものを持っているかもしれない。けれど、そうしてしまったら俺のよさが出ないなと思っているところがあったりします。3人は誰が言ったことでもうまく自分を出せるんですよ」

学校の後や休日に遊びを決めていた、子どもの頃から抱いてきた感覚だ。一方で、バンドのリーダーとしては細かなアレンジを指示するといったことはなく、各人の領分には口を出さない。そこはすみ分けている。

「本分はフラワーカンパニーズのメンバーで、ベーシストです。おカネの計算とかマネジメントとか好きですけど、そちらがいちばんになったら駄目というのはずっと思ってやってますね」


機材車と一緒に(写真提供:フラワーカンパニーズ)

今、フラカンが抱く目標とは?

ではフラワーカンパニーズのメンバーとして、今どんな目標を抱いているのか。

「60歳になっても70歳になっても全国を回ってライブするというのがいちばんですね。死ぬまでやれたら最高です。ライブ中に死ぬのは嫌だけど(笑)。

それをやるには何をすべきか。いい曲を作ったり、もっとうまく演奏できるようになったり。あと、演奏する場であるライブハウスが生き残っていくためにもいろいろやらないと。今、地方では平日のライブハウスのブッキング状況は割と空き日が多く悲惨ですから。可能な場所ではなるべく平日にライブを組みたいと思っています」

インディーズになってからリリースした最新シングルは、あえてネット配信や通販を通常行わず、ライブハウス限定発売の形をとっている。それも長く生き残るための一手といえるだろう。

「年を取るとやれることが減っていくと思われるし、そう思ってもいましたけど、時代は変わってきていますからね。自分たちは1回も売れていない。だけど続けていたら、今までと違うことが起きる可能性があるなと。そういうことを期待してやっているところはあります」

内部と外部の理解が深く、とても盤石な生き方をしているように思えた。しかし、48歳になって感じる危機もあるとか。

「やっぱり健康問題はでかいですよね。特に今年に入ってからヤバイ(笑)。鈴木ののどに関してはずっと養生しながらやってるんですけど、最近はライブの日程を組むときもハイエースでの1回の移動距離をなるべく短くするようにと意識しています」

9月、自分たちの年齢にかけたフルアルバム『ROLL ON 48』をリリースした。いろいろあるけれど、歩みはまだまだ止まらない。

※ 参考文献『消えぞこない』(フラワーカンパニーズ著/リットーミュージック)。武道館ライブの直前に出版されたバンドヒストリー本。