稲盛和夫・京セラ名誉会長

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京セラ、KDDIを創業し、日本航空(JAL)を再建した稲盛和夫氏。そんな稲盛氏もかつては、入試や就職に失敗し、会社でも評価されないなど、不運の連続でした。なぜ人生を好転させることができたのか。稲盛氏は「『人間として何が正しいのか』を心の座標軸にすえたからだ」といいます。そうした「稲盛哲学」が生まれた経緯とは――(全3回)。

※以下は稲盛和夫『活きる力』(プレジデント社)からの抜粋です。

■考え方を変えるまで不運の連続だった私の人生

私は、1932年、鹿児島市に7人兄弟の次男として生まれました。当時、父は印刷業を営んでおり、戦前ではありましたが、比較的恵まれた家庭でした。しかし、第二次世界大戦を境に、私の運命は大きく変わっていきます。

終戦の1年前にあたる1944年に旧制鹿児島一中の入学試験を受け、見事に落ちる。翌年また受けて、また失敗する。

さらに、終戦の直前に結核にかかり、まだ13歳だったにもかかわらず死にかける。鹿児島が連日連夜空襲にみまわれる中、青瓢箪みたいになって寝ている。そんな暗い少年時代を過ごしたのです。

結局、自宅も空襲で焼けてしまい、戦後は貧しい生活を余儀なくされましたが、学校の先生の強い勧めや親兄弟の支援もあって、なんとか高校進学を果たし、やがて大学に行けるチャンスにも恵まれました。

しかし、希望していた大阪大学医学部には合格せず、結局、当時新設されたばかりの、鹿児島大学工学部応用化学科に入学したわけです。昔、伊敷には陸軍の兵舎があって、鹿児島大学工学部はその跡地にできました。

大学を卒業した1955年は朝鮮戦争が終わった後の不況で、日本はたいへんな就職難でした。地方の新制大学を卒業し、縁故も何もない私にはなかなか就職口が見つかりません。ようやく大学の恩師の紹介で、京都にありました送電線用の碍子をつくる会社に就職することができました。

私は有機化学の専攻で、特に無機化学のヤキモノの会社に入るのは本意ではなかったのですが、急遽卒業論文のテーマを無機化学に変えて、即席で卒業論文を書き、就職をしたような状態でした。

また、入った会社というのが、終戦からすでに10年が経っていましたが、ずっと赤字続きで、従業員に給料がまともに払えないといった会社でした。給料日になりますと、「まことにすまんが、1週間、給料の支払いを待ってくれ」と言ってくる。給料ぐらいはまともにもらえるだろうと思って入ったのに、給料日が来ても給料がもらえない。自炊をしていましたので、たいへん苦労をいたしました。

そのような会社の状況もさることながら、入れてもらった寮も、広さこそあったものの、畳の表は破れ、本当にボロボロの部屋でした。そこに七輪と鍋を買って持ち込んできて生活をしていたのです。

大卒の同期は5人いましたが、そんな会社でしたので、就職難の時代とはいえ、1人去り、2人去り、8月には2人だけになってしまいました。もう1人は京都大学の工学部を出た、九州出身の男でした。2人で「この会社はだめだから辞めよう」「辞めようったって、お互いどこに行くんだ」、そんなことを言いあっているうちに、「自衛隊の幹部候補生学校というのがあるから、そこへ行こう。あそこだったら、ここよりまともな給料をくれるぞ」と、2人そろって受験しました。

しかし、私は家族の反対にあい、結局、受かったものの、行くことはできませんでした。もう1人のほうはそのまま自衛隊に行ってしまったので、5人入った大卒の中で私だけが1人残り、その会社で働くはめになってしまったのです。

■研究に打ち込むと、人生がよい方向に進みだした

そこで、もうこうなったらグジグジ言ってもしょうがないと、私は気持ちを180度切り替えることにしました。つまり、「考え方」を変えたのです。

それまでは、自分はなんと運のない男かと、情けない思いで過ごしていました。大学を卒業するまでは、まさに不運の連続。中学校を受けてもすべる、大学を受けてもすべる、大学を卒業しても就職試験にすべる。

かなりいい成績で大学を卒業したつもりでいましたから、当時は先生も「稲盛くんだったら、たとえ縁故がなくたって、どこの会社でも採ってくれるだろう」と言って世話をしてくださった。ところが、どこも採ってくれなかった。だんだん不平不満がつのり、世の中がいやになってきました。

実は、大学時代、工学部の中に空手部ができて、沖縄から来られた先生が少林寺拳法を教えてくれるというので、私も部に入って空手をやっていました。少し腕っ節に自信がでてきたものですから、こんなに不公平な世の中、縁故でもなければ就職もままならない、それなら、いっそインテリヤクザにでもなってやろうかと思ったこともあったのです。

そんな私が、たまたま先生の紹介で、赤字続きの会社に入ることになった。もともと不平があったところに、ますます不平の種をもらったようなものです。

しかも、同期はみんな不平をこぼしながら辞めていったのに、私だけは取り残された。もう逃げるところがない。そこでひらきなおって、考え方を180度変えたわけです。

その頃、研究室の課長から「この会社は送電線用の碍子をつくっているけれども、それだけではいつまでも続かない。やがてエレクトロニクスの時代がくる。高周波の絶縁性能に優れた新しいセラミックス材料を開発したいと思っている。君にその研究を任せる」と言われて、たった一人でそれを手がけることになりました。たいした文献があるわけでもなく、アメリカの論文が2つ、3つあるばかりでした。

しかし、もう逃げるわけにはいきませんから、私はその研究に没頭することにしました。研究に没頭し始めると、寮に帰る時間もだんだん惜しくなってきて、寮から鍋や釜などの自炊道具を研究室に持ち込み、実験が終わったらそのままそこでご飯を炊いて食べて、椅子の上で仮眠をとる、という毎日を過ごすようになりました。そうやってまじめに精魂こめて打ち込みだすと、少しずつ成果が出るようになったのです。成果が出るから、自分でもおもしろくなる、おもしろくなるからさらに打ち込む。

そのうち上司もほめてくれるようになり、その話が役員にまで伝わって、わざわざ役員が研究室まで訪ねてこられては、「君が稲盛くんか。すばらしい研究をしているそうだな」と声をかけてくれるようになる。そうなるとますますおもしろくなって、ますます頑張るようになる。

そのように、よい方向に転回していったのです。

■新しい高周波絶縁材料の合成に成功した

入試に何度も失敗し、大学を出てもどこにも就職できず、ついていなかった青年時代。しかし、会社に入り、研究に打ち込むようになると、人生がどんどんよい方向に進みだした。そのとき初めて、私の人生に対する考え方が変わりました。

そして、研究を始めておよそ1年半が経った頃、「フォルステライト」という新しい高周波絶縁材料の合成に成功したのです。

フォルステライトができたとき、それを同定するための装置がなく、高度な測定装置を手づくりで用意したり、あるいは大学の研究室まで借りに行ったりして、苦労の末、やっと新しい高周波絶縁材料の合成に成功したということを確認しました。

そのちょうど1年前に、アメリカのGE社が同材料の合成に成功したという論文が出ていたのですが、「環境は恵まれていなかったのに、アメリカのGEというすばらしい会社の研究所が1年前にやったものと同じものを自分もやり遂げたのだ」とたいへん嬉しかったことを思い出します。

当時、松下電器がテレビを量産していて、そのブラウン管の中の絶縁材料に私が開発した材料を使いたいと、グループ会社の松下電子工業から引き合いを受けました。

今度は研究だけではなく、量産までを私が手がけることになったのです。

赤字を続けていた会社にとっても朗報であり、これでこの会社も生き返る、と会社の幹部もたいへん喜んでくれました。

その頃はテレビが飛ぶように売れており、ブラウン管の生産も、つくっても追いつかず、注文が山ほど入ってくるものですから、寝る間もないくらいに忙しく生産に取り組みました。

そのうちに、アメリカで、そのフォルステライトを使って、小指の先くらいの大きさの真空管が開発された、というニュースが届きました。

それまでは、ガラスでできた大きな真空管が使われていたのです。そこで、日立製作所がGE社から技術導入をして、日本でも量産することになったのですが、そのセラミックス材料をつくっているのが日本では私しかいなかったため、日立の方が私のところへ訪ねてこられて、それをつくってくれないかと言ってきました。

新しく開発されたセラミックスの真空管を使って、新しいラジオ、テレビをつくりたいというのです。シリコン材料が登場するのは、まだだいぶ後のことです。

それを聞いて私もたいへん感激して引き受けたのですが、やってもやってもうまくいきません。日立の研究所からは、やいのやいのと催促される。サンプルをつくって出してもなかなかうまくいかない。

日立からのクレームが重なってきたので、当時、上司であった技術部長が「これは稲盛くんに任せておったのではできない。ここまではよくやってくれたけれども、これ以上は君の能力では無理だ。別の研究者たちに任せることにする」と言ってきたのです。

その会社には京都大学出身の幹部が何人もいて、その人たちが碍子の研究もやっていたので研究を引き継ぐことになりました。

私はプライドをたいへん傷つけられ、短気を起こし、「つまり私はいらないということですね。では、辞めます」と、その技術部長に言い切ってしまいました。

■知識も経験もなかった私が心の座標軸に定めたもの

私が「辞める」と言ったのを聞きつけて、部下や、私の父親と同じぐらいの当時の管理部長も一緒に辞めると言い出しました。

せっかくここまで技術を培ってきたのだから、知り合いの方に頼んでお金を出してもらい、新しい会社をつくろうということになり、1959年に、「京都セラミック」という会社が資本金300万円で設立されました。私がちょうど27歳のときです。

今のベンチャーですと、自分でお金を集めて、自分で会社をつくるというのが普通ですけれども、当時の私にはお金がありません。あったのは、たったの1万5000円。これでは会社をつくることなどできません。300万円の資本金は、私を信じてくれた方々が出してくださったお金です。

お金を出してくれた方々は皆さんたいへんすばらしい方で、新潟出身の西枝一江さんという方などは、お寺のご出身ともあって信仰心もあり、人柄もすばらしい方でした。

「稲盛さん、だいたい事業というのは千に一つ、万に一つ成功すればいいほうなのだよ。あなたはまじめなので成功するかもしれないけれども、たぶん、失敗する可能性のほうが高いと思う」と言いながらも、ご自分の家屋敷を担保に差し出して銀行から私のために1000万円借りてくださった。

その方の奥さんも「うちには子どももいないし、あなたが27歳の青年に惚れたというのなら、いいじゃありませんか。私は家屋敷がなくなってもかまいませんよ」とおっしゃっていたそうです。

ところが、私は子どもの頃など「3時間泣き」というあだ名がついたほどの泣き虫で、そのうえ受験ではどこを受けても通らなかったぐらいですから、「あなたを信じ、あなたにかけたい」と言われて、これは大変なことになった、と震え上がりました。

創業と同時に20名の中卒を募集し、28名で会社が始まったわけですが、ああしていいか、こうしていいかと、何をするにも、みんな私のところに相談に来るわけです。

すると私は、「それはいい」とか、「それはいけない」などと言わなければならない、つまり、判断をしなければなりません。

判断をするには、判断のための基準、座標軸が私の中になければいけない。座標軸とは何かというと、それは私が持っている考え方、哲学です。

好き嫌いでものごとを判断することもできますが、一つ判断を間違うと、会社は倒産するかもしれない。そのときに私は「判断には、正しいものも間違ったものもある。そうすると、人生とは、その節々で下した判断がインテグレートされたもの、集積されたものなのだ」と気づかされたのです。

「たとえば、10の判断をするときに、そのうちの9まではいい判断をしたけれども、最後の1つを間違ったために、すべてをダメにしてしまうことだってあり得るだろう。そう考えると、ものごとを判断するということは、たいへんな責任を伴うのだな。では、その判断基準はどこへおけばいいのだろうか」と悩みました。「親戚に誰か偉い人でもいて、相談にのってもらえたらいいのに」などと思いましたが、そのような人もおらず、私は困り果てて、先ほどの西枝さんに相談に行きました。

そうしましたら、西枝さんは「稲盛さん何を言っているの、私がいるじゃないか。私に相談しなさい。なんでも教えてあげるから」と言ってくださいました。

西枝さんは、当時、宮木電機製作所という会社の専務をつとめておられて、確かに立派な方ではあったのですが、私は生意気なことに、そんな立派な会社でもないし、西枝さんの判断に任せて、本当にそれでいいのかなあと、助けてもらっておきながら思っていたわけです。

そして、「結局、自分で考えるしかない」と思うようになりました。

そうは言っても、知識も経験も何もありません。ひらきなおって、私は、子どもの頃、両親に叱られたり、先生に怒られたりするなかで学んだ「人間としてやっていいこと、やってはならないこと」、それで全部判断をしていこうというふうに考えたのです。

以来、この「人間として何が正しいのか」という考え方を心の座標軸にすえて、私はこれまで経営を行ってきました。

(京セラ名誉会長 稲盛 和夫)