中国原爆の父・稼先と妻。(ネット写真)

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 今年2月、中国科学院院士・任新民氏逝去のニュースが各メディアの目立つ位置に記載された。任氏はミサイル開発の立役者だった。中国では、1964年10月16日に初の原子爆弾の核爆発に成功し、それから1966年10月27日に初の核弾頭搭載の地対地ミサイル飛行爆発、1967年6月17日に初の水素爆弾の空爆実験、1970年4月24日には初の人工衛星の打ち上げなど、次々と成功させた。

 中国共産党政権発足後、これほど短期間で核開発の技術を手に入れたのは、旧ソ連の援助以外に、海外から帰国した任氏ら23人の科学者による貢献が大きい。

 だが、この23人の多くが文化大革命中、共産党からの迫害を免れなかったのは、知られざる事実である。

ミサイル、航空材料専門家の姚桐斌は、集団リンチで死亡

 姚桐斌氏はミサイル、宇宙航空材料の専門家で、中国航空材料研究所の創立メンバーの一人でもあった。若き頃は英バーミンガム大学の工業冶金学部に留学し、1951年に博士号を取得後、1954年に西ドイツ工業大学で冶金鋳造研究員兼助教を務めた。

イギリス留学中、中国共産党の地下組織「中国科学者協会イギリス分会」および「中国留学生総会」に参加した姚氏は、西ドイツで共産党の思想に感化され、その後スイスで共産党員となった。1957年末に帰国後、国防部第五研究院一分院の材料研究室研究員、主任、材料研究所所長を務め、主にロケット材料の研究開発に従事していた。

 姚氏などの技術者の努力が実り、1961年から1964年の間、500項目もの研究プロジェクトにおいて成果を収めた。ちょうどソ連が中共への技術提供を中止し、ソ連との関係悪化に悩んでいだ共産党を大いに喜ばせた。姚氏の成果物の約80%はロケット開発に活用されていた。

しかし、当局の指示にひたむきに従い、国の技術進歩に全力を傾注してきた彼は、自身が崇拝する「毛(沢東)太陽」の発動した文革中、残酷な暴行で命を失ったのだ。

 文革が始まってすぐ、海外帰国者との理由で姚氏は批判の標的となった。1968年6月8日、姚氏は暴行されて亡くなった。妻が帰宅した際、姚氏の遺体はすでに硬くなっていた。白いシャツには至る所に血痕が滲んでおり、ズボンは血痕と泥まみれ、片足は裸足状態で、愛用の鼈甲メガネもみあたらず、顔はあざだらけだった。「見るに堪えない凄惨な光景だった」と、妻はのちに述懐した。

 事件当日、紅衛兵が姚氏の自宅に無断侵入し、彼を平手打ちして階段から引きずり下ろし、凄まじいリンチを加えたという。「一人は彼の陰部を思いっきり蹴りながら、大声で罵声を浴びせた。その声で更に多くの悪党が駆けつけてきたんだ。彼らは棒で夫の頭部を猛撃して、頭から瞬時に血が噴出し、夫はそのまま倒れた」しかし、彼らの暴走は止まらず、意識不明の姚氏を悪党の「本部」に引きずり込んだが、姚氏の異変に気付き、慌てて彼を自宅前の歩道に運び、そのまま置き去りにした。

 姚氏の隣人と家政婦が直ぐに姚氏を病院に運ぶよう求めたものの、病院側に「帰国した帝国主義のスパイだ」との理由で治療を拒否された。頭部に重傷を負った姚氏は、46歳で自宅で息を引き取った。暴行を加えた紅衛兵は罪を追究されることはなかった。

 文革終結後の1978年、共産党当局は姚氏に「烈士」の称号を与えたが、今更「栄耀」ほど皮肉なものはない。

「中国原爆の父」膕埓荵瓩癲批判から免れず

 

 中国では、膕埓荵瓩噺世┐弌△垢阿妨暁と連想される。西南連合大学を卒業した彼は、1948年にアメリカで物理博士号を取得し、帰国後の1956年に共産党に加入した。核工業部第九研究院で院長として、原子爆弾、水素爆弾の研究開発を任され、原爆理論を完成した上、核実験の爆発模擬実験を主導した。その能力の高さから、しばしば「原爆の父」である米物理学者ロバート・オッペンハイマーと同様に語られた。生前には計32回の核実験に参与し、15回も新疆ロプノールでの実験を仕切った。しかし、適切な防護措置を受けられず、長期にわたり被曝していたため、膸瓩1986年、直腸がんを患い命を失った。

 膸瓩箸修硫搬欧睚顕渋膤很燭瞭争から逃れることはできなかった。1971年、文革の嵐は研究院にも襲い掛かり、膸瓩蕕眛争を受ける身となった。「英語を話せる者はアメリカスパイ、ロシア語を話せる者はソ連スパイ」など言われのない罪で彼は批判された。膸瓩虜覆破無医学院教授の許鹿希氏は、「黒幇分子(悪徳分子」として大勢の前で批判を受け、液体のりを全身に塗り付けられ、精神状態が崩壊寸前だった。帰ってこない妻を探しに行き、この惨状を目の当たりにした膸瓩和任舛劼靴れたという。

 膸瓩鮟劼戮訃紊如彼の弟子の中で最も優秀な趙楚氏にも触れたい。核開発にある重要な函数方程式を解けたのも趙楚氏だったという。彼は原爆製造の核心的な計算を誰でも簡単に調べられるよう、何ページもの資料を作り込んでおいた。資料の一部は、西北部の荒漠にある核実験基地の密室に厳重に保管されていた。

 文化大革命勃発後の1969年、趙楚氏は批判の対象となり、あの密室に監禁された。三日間米一粒、水一滴も口にすることを許されなかった彼は、心血を注いで作成した資料の一部を飲み込み、万年筆のぺン先で動脈を切り自ら命を絶った。

 愛弟子の訃報を聞き、悲しみに暮れた膸瓩蓮⊆蠍気砲△觧駑舛鳰篩浸瓩里墓の前で燃やした。この日から、原爆製造のカギとなる最も重要な部分を失うことになった。

 1986年、膸瓩藁彌前、共産党幹部に例の資料の作成を懇願された。

「目を閉じれば、趙楚の血が映るんだ。あるまじき勢力の手に、壊滅的な力を託すとは、人類に対して罪に等しい。いまさら悟っても時はすでに遅し」膸瓩呂燭生絏の念が募るばかりだった。

参考記事:文化大革命に翻弄された一家の物語

(つづく)

                                        (大紀元ウェブ編集部)