寺山修司は2021年に存在し得るのか? 『あゝ、荒野』が描く魂のぶつかり合い

写真拡大

 2021年、東京オリンピック以降という近未来に、1960年代から80年代を駆け抜けた表現者・寺山修司は存在し得るのか。吃音で赤面対人恐怖症のバリカン建ニと、ギラギラと野性的な目を光らせている新宿新次は、そして曽根芳子は、宮木太一は……。あのやり場のない孤独と慟哭は、あの新宿は、近未来の日本に存在するのか。

参考:菅田将暉×萩原利久、“先輩と後輩”対談!「出会った頃は、僕の膝に乗ってた」(菅田)

 朝ドラ『ひよっこ』において1967年を生きているヒロインたちが、50年後の2017年を「車は空を飛び、月に行ける時代」と想像していたが、1966年という『ひよっこ』とほぼ同じ年に書かれた原作『あゝ、荒野』の55年後を描いた映画『あゝ、荒野』は、車も空を飛ばない、月にも行けない、介護問題と自殺者の増加、震災やデモ活動と、原作で描かれていた当時の「今」の新宿と地続きの、より孤独が溢れたほんの少し今より先の、起こりうるかもしれない新宿を生々しく描き出していた。

 映画『あゝ、荒野』は、寺山修司の原作を映画『二重生活』の岸善幸監督が、舞台を2020年の東京オリンピック以降の新宿に置き換え、菅田将暉を新次、映画『息もできない』のヤン・イクチュンをバリカンに配した、前後編合わせて5時間を越える傑作青春ボクシング映画である。

 最近はテレビに映画に歌に引っ張りだこの菅田が、本人曰く「菅田将暉R指定三部作」だそうだが、初期の映画『共喰い』の遠馬役、主人公ではないが強烈な存在感を示した『そこのみにて光輝く』の拓児役と同じ系譜に属する、直情的ではあるが素直で思いやりのある青年・新次を演じる。ボクシングの格闘シーンだけでなく激しいラブシーンも多いこの映画だが、木下あかり演じるヒロインの芳子を初めて見つけた時の、獲物を見るような目、欲情して彼女の動きをじっと追う目、やがて愛おしいと本気で求めはじめた後の真剣で真っ直ぐな目へと変化していく菅田の動物的な眼差し、表情がとにかくいい。

 そして、『息もできない』の尖ったイメージからは想像できない、ヤン・イクチュンのバリカン健二。「強くなりたい」と心から願うバリカンの捻り出すような言葉は、ひとつひとつが優しさに溢れていてどうにも愛おしくなる。新次を愛し、愛するために憎もうとするがどうにも憎めない切なさ。新次の口元から零れた血を拭き取る時、試合中に新次が吐き出した血の混じった唾液をバケツで受ける時の心配そうで妙に真剣な表情、床屋で新次の髪を洗い、褒められた時の無邪気で嬉しそうな表情。原作には描かれていない新次とバリカンの親同士の因縁も加わり、後篇における2人のクライマックスは心臓を打ち砕きそうな勢いで迫ってくる。

 片目が見えない元ボクサーの悲哀を好演しているトレーナー役のユースケ・サンタマリアや、まるで代弁者のように寺山修司の言葉を口にする、覗きとAV鑑賞が趣味の「哀しき四十男」ジムのスポンサーの宮木を演じる高橋和也をはじめ、全キャストの熱量が、寺山修司の世界の登場人物たちを現代に蘇らせている。

 物語の中で決して中心的なキャラクターではないが極めて強い印象を残す、河井青葉演じるセツという女性がいる。映画と原作では、この人物の描き方に大きな違いがある。原作には、セツが2人いる。それは、バーで働く足の悪い女性・セツと、集団就職で東京に行って以来疎遠になった、おそらく自殺したのだろう、ガス管のゆるみによって事故死したと芳子が新聞で知っただけの、北海道で死んだ母親・セツだ。余談だが、寺山修司作品において寺山の母親の名前であるハツの名前に似た人物は要注意である。

 映画では、この2人の人物を同一人物として描いている。セツは新宿のバーで働きながら、震災で離れ離れになった娘を探し、芳子は、母親を「仮設に置いてきた」と新次に言う。「待って」と言う足の悪い母親と、待たずにスタスタと歩いていく子供の芳子という過去のイメージは複数のエピソードによって表され、芳子が捨てるに捨てきれない、母親の履かせてくれた靴のみが彼女の部屋に残っている。

 ただ、最後まで回想シーン以外で絡むことのないこの親子は、公式ホームページに書かれている登場人物名において「尾根セツ」と「曽根芳子」となっている。つまり、実際は、彼女たちは本当の親子なのかもしれないし、同じ被災者で、新宿を彷徨っている、よく似た境遇の他人同士なのかもしれないという可能性も孕んでいるのだ。

 新次に足の悪いことに対する偏見で突っかかられ、帰りしなに「あたしだって名前はあるのよ。無名だけど」「あたしは、セツっていうのよ」と抵抗する原作の孤独なバーの女性・セツは、映画では、震災で離れ離れになった娘を探しながら、トレーナーの片目こと堀口(ユースケ・サンタマリア)と出会い、同じ孤独を共有し、静かに愛を育んでいく存在として生きている。どちらにせよ孤独な女性であることに変わりはないが、彼女の人生が映画の中で息づいていることを嬉しく思う。

 この映画は、新次やバリカン、新次の因縁の相手・裕二(山田裕貴)たち戦う側の物語だけではない。観客席側にいる人間の姿も丁寧に描いている。試合中、戦う彼らの反対で、殴り、殴られる、愛する人を見つめる選手の妻や妹、恋人、母親の表情が何度も映し出されるのが印象的だ。女たちは愛する人のことを想い、宮木はじめ男たちは、自分のやるせない人生そのものを昇華させるように、自分自身を投影させるように、リングの上の男たちを見つめている。

「強くなりたい、強くなりたい」「僕はここにいる」

 その言葉はバリカンの言葉だけではないのだろう。リングの上の人々、自殺防止フェスティバルの学生たち、新次とバリカン、芳子の母親や父親たち。それぞれの、人生全てに鬱屈を抱えた人々全ての言葉なのだ。「観客は立会いを許された覗き魔である」と寺山は書いている。しょせん覗き魔に過ぎない観客だったとして、「僕はここにいる」。それはきっと、映画館の片隅で心を震わす全ての観客の言葉なのかもしれない。(藤原奈緒)