1967年10月10日にAFPのマルク・フッテン特派員が撮影したチェ・ゲバラの遺体の写真。当時ゲバラの遺体が置かれていたボリビア・バジェグランデにある小屋の同じ流し台の前で(2017年9月30日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News

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【AFP=時事】1967年10月10日、南米ボリビアの小さな町に仮設された遺体安置所で、同国軍はマルクス主義者の伝説的革命家、エルネスト・ゲバラ(Ernesto Guevara)──通称チェ・ゲバラ(Che Guevara)の遺体を報道陣に公開した。

 キューバ革命の英雄の最期を伝えるため、同国の政府所在地ラパス(La Paz)から南東へ約700キロ離れたバジェグランデ(Vallegrande)へ飛んだ報道陣の中に、AFPのマルク・フッテン(Marc Hutten)特派員(2012年死去)がいた。

 ボリビア軍は当時、ゲバラは新たな民衆蜂起を起こそうと潜伏活動を行っていた同国山中での戦闘で負傷し、それが原因で死亡したと説明していた。だが後に、ゲバラは捕らえられて処刑されたという事実が明らかになった。39歳だった。

 ゲバラの遺体はバジェグランデに埋められていたが、死後30年たって遺骨が発見され、キューバのサンタクララ(Santa Clara)にある霊廟(れいびょう)に葬られた。

 フッテン記者が撮影した数枚の遺体写真は、このアルゼンチン生まれの闘士が他界した証拠を世界に提示した。またその記事は、50年前の遺体公開の様子を鮮やかに伝えている。以下はフッテン記者が当時書いた記事の一つだ。

■「ラモン」の遺体を前にして

【AFP=時事】私は10日午後、弾痕が残る「ラモン(Ramon)」という名のゲリラの遺体と対面した。ラモンはチェ・ゲバラの偽名とみられている。

 史上最も有名なゲリラの一人の死を記録するため、報道陣約30人がボリビア南東部の暑く気だるい町バジェグランデへ赴いたが、外国特派員は私を含め3人だけだった。

 われわれが乗ったプロペラ機はラパス(海抜4100メートル)から下降し、シエスタ(午睡)の時間にバジェグランデに着陸した。

 町の反対側の端、寂れた通りに門があり、50人ほどの見物人が物珍しそうに集まっていた。門をくぐると空き地があり、その奥の斜面にあるかつての牛舎が遺体安置所として使われていた。そこで正装の将校らと武装した兵士らの出迎えを受けた。

 セメント製の流し台の上に置かれた担架に、長髪でひげを生やした男性の遺体が横たわっていた。身に着けているものはオリーブグリーン色のズボンだけだった。

 無数の銃痕に覆われた血の気のない遺体の周囲には、防腐用のホルムアルデヒドの臭いが漂っていた。床にはさらに2人の遺体が放置されていた。

 ラモンの正体について、報道陣から上がりかねない疑念を払拭(ふっしょく)するために立ち会った将校らは、ゲバラと目の前の遺体との一致点を一つ一つ示して見せた。遺体の指紋もゲバラのものと一致したと聞いた時点で、疑いを差し挟む余地はもはやなかった。

■「処刑ではない」

 ラモンは8日、バジェグランデに近いライゲラ(La Higuera)から数キロ離れた場所で起きた戦闘で致命傷を負い、そのけがが元で9日未明に死去した。同域を管轄する第2大隊の司令官、アルナルド・サウセド(Arnaldo Saucedo)大佐は「処刑されたのではない」と言った。

 ラモンは自分を拘束した兵士らに対し、「私はチェ・ゲバラだ。不覚だった」とつぶやいたという。とにかくこれが軍最高司令官のアルフレド・オバンド(Alfredo Ovando)将軍の説明だった。だがそれより少し前の記者会見で質問を受けたサウセド大佐は、ラモンの意識が戻ることはなかったと答えていた。

 複数のカメラマンも含め、報道陣は遺体安置所の中を歩き回りながら、驚きと不信の表情を浮かべていた。しかし人違いは絶対にあり得ないように思われた。

 ボリビア人の同僚が私に言った。「バジェグランデはたった今、南米の革命史にその名を刻んだ」

 顔に真一文字の口ひげを蓄えた筋骨たくましいサウセド大佐は、報道陣の集まったホテルの部屋で、壁に掛かった宗教画の下に立って遺体公開後の記者会見を行った。その中で同大佐は、ボリビア南部にいるゲリラの残党はあと9人だけだと明かし、いかなる反乱のアジトもほとんど残っていないと主張した。

■「ゲリラの冒険は終わった」

 会見には1人の米兵が臨席していた。記章は着けていなかったが、がっしりした体格や赤みを帯びた顔、軍服が国籍を示していた。

 私はこの兵士に向かって英語で質問を投げ掛けた。すると兵士はボリビア兵の方を向き、この人は何を求めているのかとスペイン語で尋ねた。さらに私に向かってスペイン語で「ノ・コンプレンド(分かりません)」と言って歩き去った。

 後にサウセド大佐が私に対し、「そうだ、彼は米兵で、サンタクルス(Santa Cruz)センターの教官だ。立会人としてここに来た。米軍のグリーンベレー(陸軍特殊部隊)は、ボリビアでの軍事作戦には関与していない」と語った。

 反乱の動きが始まった3月23日以降に殺害された、キューバ人10人以上を含むゲリラ33人のリストが、バジェグランデで公表されている。

 オバンド将軍はボリビアのゲリラ運動への参加者が予想外に少なく、60人前後を超えたことは一度もなかったと語った。

 同将軍は、あらゆる狂った冒険がそうであるように「ゲリラの冒険は終わった」と言った。その敗因としては、民衆からのいかなる支持も得られなかったことと、地形の厳しさにあると分析した。そして「ゲバラはここ、バジェグランデに埋める」と明言した。

 ラモンは狭小な渓谷で、ほぼ至近距離での激しい戦いの末に亡くなったとされる。彼の遺体に残っていた9発の銃弾は50メートル先から撃たれたものだった。

 ラモンは1966年11月7日から1967年10月7日まで、ちょうど11か月間日記をしたためていた。ドイツ製の日記帳に残されたその筆跡は紛れもなく、筆者が誰かを告げていたという。
【翻訳編集】AFPBB News