昨年12月のオープンしたティコパンは、パン職人である夫妻で営んでいる(撮影:大澤 誠)

複数ある最寄り駅から徒歩15分。言い換えれば、どこの駅からもさほど近くないのに、パンマニアからひそかに注目を浴びているパン屋がある。北新宿の小滝橋交差点そばにたたずむそのパン屋は、どことなくフランスのを雑貨店思わせるようなしゃれた外観だ。


最寄り駅から徒歩15分ほどのところにある。外観は雑貨店のよう(撮影:大澤 誠)

昨年12月にオープンした「ticopain(ティコパン)」。周囲にパン屋がないこともあって、開店から1年足らずで、パン・ドゥミ(食パン)やバゲットが売り切れる人気店となった。食パンはともかく、バゲットは意外に売れ残りが多い商品だ。おしゃれな店という印象を抱かせ、シンプルな分だけ作るのが難しい、という作りがいのあるアイテムだが、買う人は多くない。

実はパン屋で食事用パンを買う人はまだ少数派で、バゲットはクリスマスやホームパーティなど特別な日用という人も多い。パン屋を取材していると、バゲットが売れ残るという声はよく聞く。

パン職人夫婦の多彩な経歴


人気のバゲットは1本300円(税抜き)。このほか、パン・ドゥミ(300円)もファンが多い(撮影:大澤 誠)

ティコパンのバゲットは、確かに香りがよく、さくさくとしたキレのいい味わい。食事のお供にいかにも合いそうだ。これを仕込んでいるのは、店主の中島直樹氏と同氏の妻、佐知子氏。自らの勘でこね具合や発酵の具合を確かめ、手ごねで仕込むという。

ティコパンの人気の理由を探っていくと、いくつか面白い点に気がつく。1つは、ティコパンでは、夫婦2人がパン職人であるという点だ。町のパン屋の場合、夫がパン作りを担当し、妻がレジや店頭管理を担うパターンが少なくないので、これは珍しい。店では、直樹氏が経営とパンの成形、オーブンで焼く工程などを担当し、佐知子氏は粉と材料の味のチェック、パン種の仕込み担当と、それぞれが得意なことに専念している。直樹氏によれば、「夫婦が両方とも製造できるのはアドバンテージ」である。

夫婦の経歴も多彩だ。佐知子氏は、フランス料理店「シェ・リュイ」のパン部門でキャリアをスタートし、パリの「ル・グルニエ・ア・パン」で修業を積んだ。帰国後、同店のアトレ恵比寿店のオープニングシェフなどを務めた。

一方、直樹氏はシェ・リュイ大島店でチーフを務めた後、佐知子氏と結婚した。31歳で、駅ナカや百貨店の飲食店を経営するトリコロールのパン部門でパン作りや製造管理などを経験後、2015年に退職。大量生産のパン作りを経験した直樹氏は、「それぞれの個人能力を活かせる高性能高機能な厨房を、家内と作れたらいいな」と考えており、製パンコンサルタントを経て佐知子氏とティコパンを開いた。

そんな職人気質の2人が営むティコパンは、可能なかぎり「自家製」にこだわっている。通常、パン屋は菓子パンや総菜パンの中に入れるクリームなどを、専門メーカーから購入している。パン作りとは別の技術を必要とするうえ、手間もかかるからだ。カスタードクリームなど厳しい衛生管理を求められる製品の安全性も担保できる。

ただ、最近はカスタードクリームなどの自家製をうたう店が増えている。材料の手作りはトレンドともいえるが、ティコパンの場合、自家製するのはクリームだけにとどまらない。

パン屋らしい仕事をするために乾燥機を導入


厨房の奥にある食品乾燥機。この日はオニオンを乾燥させていた(撮影:大澤 誠)

厨房の奥に、70万円したというその「秘密兵器」は置いてある。ほかのパン屋には、まずないと思われる食品乾燥機である。同店では、この乾燥機を使って、ドライフルーツやベジタブルを作っている。その理由は2つ。1つは、9.4坪しかない店で収納スペースをたくさん取ることは難しいが、「乾燥機を使うと、野菜や果物のサイズも3分の1になり、賞味期限がほぼないので、管理しやすい」(直樹氏)から。

そしてもう1つは、彩りのためだ。飲食店にとって、いまやインスタ映えの追求は集客のため避けられない傾向があるが、「そのためによくやるのが、デニッシュに生の果物を飾る、という菓子屋のまねごとのようなこと。でも、生のものを使うと、朝はきれいでも夕方にはベチャッとなってしまう。パン屋らしい仕事を、と考えたときに、ドライフルーツを彩りのよいものにすればと考えました」と直樹氏は語る。

しかも、生の材料を使う場合は、「発酵の合間にオンタイムでピシッピシッとやらなければならない」が、乾燥させるための下ごしらえは2、3日分まとめてできる。機械をセットしておけば夜の間に乾燥機が仕事し、翌日には出来上がる。「思ったほどきつくないですよ」と直樹氏。

しかし、すべて手作りでなければ、とこだわっているわけではない。外国産など生で手に入らない果物もあるし、「濃厚さは海外のもののほうがいい」。特性に応じて使い分けているというわけだ。常時作っているのは、ドライオニオンとドライトマトの2種類。ほかにキウイやイチゴ、レモン、オレンジ、アプリコット、プラム、イチジクを採用してきた。


ドライオニオンを使ったオニオンブレッド(650円)(撮影:大澤 誠)

ドライオニオンは、オニオンブレッドの材料になるほか、ドライトマトやドライキノコも加えたタルト・フランベに使う。「まだ、通年はできていないので、どの果物・野菜をパンにできて何ができないのか、見極めてノウハウを蓄積していきたい」(直樹氏)。


タルトフランベ(250円)(撮影:大澤 誠)

ほかにも、アーモンドの粉を使ったクリーム、クレーム・ダマンドは、シェ・リュイなどでは、アーモンドプードルという粉末の既製品を使っていたが、現在は豆のまま購入し、ひいて使う。「ひきたての香りがいいのと、粗びきで粒感が残るようにすると、食感が面白い」からだ。

どうやら直樹氏、手作りの可能性を追求すること自体が面白く、苦にならないようだ。それはあえて力仕事の手ごねでバゲットのパン種を仕込む佐知子氏にも共通するのだろう。何しろ使っている小麦粉は、すべて扱いが難しい国産小麦粉だ。

早く帰りたいから効率性を追求

外国産小麦の小麦粉を使っていた会社員時代、2人はそれぞれ肌荒れや鼻炎に悩まされていた。それが、店を持ち、国産小麦の小麦粉を使い出してから「体調がめっきり改善した」という。しかし、製粉メーカーが目的に合わせて製造した外国産小麦が原料の小麦粉に比べると、国産小麦の小麦粉は性質が不安定という欠点を持つ。

北海道産と熊本産の小麦粉で仕込む種は、最初のうちは水をよく吸い、「これどうなっちゃうんだろう」と思うが、一晩寝かせて成形するうち、「ちゃんとした生地になる」。「その変化が楽しい」と直樹氏が語るのは、確かな技術があるからだ。そして、国産小麦を使うもう1つの理由は、「味わいも面白いこと」である。


セーグルフリュイ(700円)も人気商品の1つ。うしろには、ドライイチジクが(撮影:大澤 誠)

ティコパンが面白い理由はさらにもう1つある。それは、直樹氏の卓越したマネジメント力だ。過去のマネジメントやコンサルティングの経験があるからともいえるが、そもそも効率性を徹底的に重視するのは、「日々の仕事が大変で、ただ頑張っていた」時代から、早く帰るために表計算ソフトなどを使って製造管理をしたいと考えていたからだ。早く帰りたいのは、「もっとパンの勉強をしたいから」でもある。

たとえば、小麦粉の量はざっくり6キログラム、7キログラムと計算するが、実際に仕込む量は7.2キログラムなどの半端な数字も含む。そこまでの細かい原価計算を全部の材料に関して「電卓を使ってやるのはしんどい」。今では、厨房にタブレット式のパソコンを置き、すべての商品の原価管理を行っている。

直樹氏は、店の立地選びでも独自の経営センスを発揮した。これまで、直樹氏が働いてきた駅前の好立地の店では、家賃が売り上げの16%もかかっていた。しかし、最寄り駅から遠いティコパンでは、約5%と10%以上も負担が少ない。その「余った分」を材料などの原価に投入できるというメリットがある。

パン業界では、周囲の半径500メートルに人口が1万5000人いると、パン屋1軒が成り立つといわれるが、ティコパンの周囲は約1万9000人いるうえ、景気に左右される不労所得ではなく、自ら働いて稼ぐ住民が多いことにも着目した。実際、駅から遠い立地でも、数多くの常連を抱える店に育っている。

今後は、生地を伸ばすリバースシーター(パイローラー)と、均一な火力を保てるコンベクションオーブンを導入し、クロワッサンなども作りたいという。衛生面などの管理に自信ができたら、自家製粉にも挑戦したい。より密度の高い製造空間を作り、高品質なパンを効率的に作る工夫を重ねていく2人の挑戦は、始まったばかりだ。

パン業界に必要だった要素を省いていった

中島夫妻の試みは、はからずも大量生産の限界を明らかにしている。消費者の食の安全や安心に対する要求が高くなり、食品製造現場では、安定した品質を保ちながら、衛生面はもちろん、材料の安全性も追求しなければならなくなっている。現代は、大量生産が必ずしも生産性が高い、とはいえない時代に突入しているのかもしれない。

広い店、便利な駅前、扱いやすい外国産小麦の小麦粉に食品添加物、生の野菜や果物。通常は必要とされるが、中島夫妻にとっては不要な要素を排除していった結果、リーズナブルな価格で品質の高いパンを売ることが可能になった。

技術と経営の合理化の追求を語る直樹氏からは、やりたい仕事に向かって邁進する喜びが感じられた。それは、高い技術を持つ自身と相棒がいるからでもある。

実は、ティコパンには、ビルオーナーの応援もある。「大家さんは、自分のおカネで買ったパンを、営業でいろいろなところに持っていってくださる。本当にありがたいです」。高い品質の製品を誠実に作る人には、頼もしいサポーターがつく。それは、おそらく店の常連などの形で今後も増えていくのではないだろうか。